溝口敦さんの著書、『池田大作「権力者」の構造』を読んでいたら、次のようなところがありました。


第二章偽造の履歴98ページ

シラミの話で始まる「生命論」は、生命とは過去、現在、未来の三世にわたって連続し、永遠に存在するもので宇宙自体が生命であるとの主張に尽き、せいぜい古代インドのウパニシャッド哲学以来の観念論のやきなおし(日隈、前掲書)にすぎないというしろものであったが・・・・・


ここのところが気になりました。
ウパニシャッドという言葉は以前に聞いたことがありましたが、内容がわからなかったのでウェブで調べてみました。


ウパニシャッドは紀元前800年から紀元前500年にかけて成立していたようです。

釈迦が紀元前463年頃~紀元前383年頃の人だそうですから、それ以前から存在していたバラモン教の経典のようなものでしょう。


『梵我一如』という考え方は、ウパニシャッドの考え方です。
ブラフマンやアートマンでお馴染みの哲学です。
これは、新興宗教やスピリチュアルで結構利用されている観念論で、大衆受けが良いようです。


釈迦の原始仏教では、この考えは否定されていましたが、釈迦滅100年後ころに起こった大乗仏教で復活したようです。
この時点で、釈迦の教えとは違ってきています。


釈迦の名前を利用して、釈迦の教えとは違うことを広めていることになります。
このことは原始キリスト教に関しても言えます。


釈迦の悟りは、迷信を配して正しく思考することですから、平凡で面白みがないかもしれません。
しかし、平凡であることが一番むつかしいのではないでしょうか。


正しく考えるということは難しいことです。


思考停止しないで、考え続けることが大切だと思います。