ずっと、そのままのあなたでいてください。
という言葉を聞いてあなたは、どう思いますか?
変わろうとしなければ、永遠に変わらない、自分という存在が実存していればそれは可能かもしれません。
でも、一瞬たりとも変わらないものは存在しません。
一瞬前の自分と、今ここの自分は厳密に言えば違います。
存在論的には
一瞬前のあなたと、今ここのあなたが、まったく同じものでなければなりません。
一瞬前のあなたと、今ここのあなたと
分けて考えられる時点で、主語が変わってしまいます。
存在するとは、主語として名指されたものが、次の瞬間も、何も変わらない状態で存在しなければなりません。
全てのものが一瞬たりとも、同じ状態で存在することはできません。
ですから、『我』という主語を使って、『我』の存在を語ることはできません。
つまり『無我』が本当の姿です。
全てのものはつながっていて、関係性の中での存在です。
便宜上、自他、自分と環境と境界を想定することによってのみ、自分という個の世界を楽しむことができます。
本当の世界はひとつのものです。
これ以外の存在はありません。
その中の、何らかの縁で生じている私たちの肉体はひとつのパーツです。
いつか変化してそのパーツは消えてゆきますが、その時まで、パーツの集まりの人類の積み上げてきた文化を楽しみながら生きることができます。
『そのままのあなたでいい』
という言葉は、どういう意味なのでしょう。
そのままなんて、ありえないわけですから・・・
感情である潜在意識はアナログですから、それでも理解できるでしょう。
というより、
潜在意識は、その言葉が、『私は、あなたを認めているよ』という意味で受け取っているのかもしれません。
潜在意識は、全てはひとつということと、分離した自分たちを感じることを同時にしています。
私たちは、つながりの中でしか存在できないし、
無我
肉体をもつことによって個の性質も持っています。
分離されながら一つのものでありたいというアンビバランスな思いをもっているのが、私たちであり、私たちの本体、潜在意識なのです。
潜在意識の本当の目的は創造です。
このままの自分でいいんだなんて、慰めれれている場合ではないかもしれません。
観念上にしか存在しない自分を守ろうとすることより・・・
創造という冒険の旅に出てみませんか。
という言葉を聞いてあなたは、どう思いますか?
変わろうとしなければ、永遠に変わらない、自分という存在が実存していればそれは可能かもしれません。
でも、一瞬たりとも変わらないものは存在しません。
一瞬前の自分と、今ここの自分は厳密に言えば違います。
存在論的には
一瞬前のあなたと、今ここのあなたが、まったく同じものでなければなりません。
一瞬前のあなたと、今ここのあなたと
分けて考えられる時点で、主語が変わってしまいます。
存在するとは、主語として名指されたものが、次の瞬間も、何も変わらない状態で存在しなければなりません。
全てのものが一瞬たりとも、同じ状態で存在することはできません。
ですから、『我』という主語を使って、『我』の存在を語ることはできません。
つまり『無我』が本当の姿です。
全てのものはつながっていて、関係性の中での存在です。
便宜上、自他、自分と環境と境界を想定することによってのみ、自分という個の世界を楽しむことができます。
本当の世界はひとつのものです。
これ以外の存在はありません。
その中の、何らかの縁で生じている私たちの肉体はひとつのパーツです。
いつか変化してそのパーツは消えてゆきますが、その時まで、パーツの集まりの人類の積み上げてきた文化を楽しみながら生きることができます。
『そのままのあなたでいい』
という言葉は、どういう意味なのでしょう。
そのままなんて、ありえないわけですから・・・
感情である潜在意識はアナログですから、それでも理解できるでしょう。
というより、
潜在意識は、その言葉が、『私は、あなたを認めているよ』という意味で受け取っているのかもしれません。
潜在意識は、全てはひとつということと、分離した自分たちを感じることを同時にしています。
私たちは、つながりの中でしか存在できないし、
無我
肉体をもつことによって個の性質も持っています。
分離されながら一つのものでありたいというアンビバランスな思いをもっているのが、私たちであり、私たちの本体、潜在意識なのです。
潜在意識の本当の目的は創造です。
このままの自分でいいんだなんて、慰めれれている場合ではないかもしれません。
観念上にしか存在しない自分を守ろうとすることより・・・
創造という冒険の旅に出てみませんか。