私たちの心の本質は潜在意識であります。


本質とは、そのものが殆どを占めているという意味です。


私たちの心の大部分が潜在意識で出来ているということです。


自我という顕在意識も、その潜在意識の大きさに比べたら微々たるものです。
そして、自我の立場も潜在意識が創り出したプログラムにすぎません。


脳が心を作り出していると考えると、当然、脳も身体の一部であり、潜在意識は身体の中に存在すると考えれます。


と考えると、自我は身体自身を維持し守るために作り出されたプログラムということができます。


このプログラムは、便宜上、自分と自分以外のものとの区別を設けています。


正確には自分と自分外ですね。

以外や以内の『以』はそれ自体も含むという意味だからです。
しかし、ワンネスの潜在意識にとっては問題にならないことですが・・・


潜在意識の本体は本来、自他の区別を持っていません。


それは仏陀やイエスが到達した結論です。


仏陀は『無我』・・・
自我は便宜上の存在ということです。


イエスは『愛』・・・
愛とは、その「便宜上の自我」を忘れている状態です。
自他の区別のつかない状態です。

プログラムが起動していない状態です。


自他の区別のない一体感が本質です。


その意味で私たちの本質は『愛』ですという比喩的表現も可能です。
しかし、『私たちの本質は光です』という言い方まで行くと違和感を感じますが・・・

愛の光という意味なのでしょうか?


愛を光に喩えて語るのミスリードです。
『愛とは状態』と考えられるからです。


『我を忘れて一体感を感じている状態』が私たちの本質です。


そんなとき、私たちは喜びを感じます。



宇宙意識が産みだした私たちの身体、その中に組み込まれたプログラムが潜在意識、その潜在意識が産みだしたプログラムが顕在意識、その顕在意識プログラムの一部に自我プログラムが入っています。


その意味で、私たちは常に宇宙意識と繋がっています。


自我の確立と顕在意識の発達は同時進行してきたものです。


『自我』と『我がまま』は違います。


『自我』の働きは自他や、物事を区別を付ける働きです。
自我がなければ、顕在意識が発達できず、物事を認識できません。


『我がまま』は、人を孤立化させ、心の病に至る場合もあります。


パソコンで考えると潜在意識はハードデスク。
容量は凄いです。


しかし、データを入力しないと宝の持ち腐れとなります。
そのデータを取り入れる仕組みが顕在意識であり、自我です。


自我の発達とともに、顕在意識も発達し、潜在意識の中のデータも増えてゆき、思い出せないほどデータが集積されると潜在意識のコンピュータとしての能力が開花します。


潜在意識を活用する魔法はありません。

コツコツとデータをまず蓄積することです。


勉強、勉強ですね。