夢の中で、これは夢だと感じることはありませんか?
私はよくあります。


夢自体も浅い眠りの時に見るのでしょう。
潜在意識と顕在意識の狭間を彷徨っている状態なのでしょう。


そんな中で意識の存在を意識することがあります。
自分が睡眠をとっている最中であることは解かります。

目を閉じているし、体感もモニターしていないので、意識だけが存在している感じを受けます。


現実のことは何も思い浮かべず、その意識だけに集中していると、身体に属している意識以外のものを感じます。

それが大元にあるものであり、個別の自我をこえた真我や大我がやっぱりあるんだなと感じました。


それを本当の自分と認識しても良いと思うのですが、論理的な意味で自分という言葉を使うのには、やはり抵抗があります。


インターネットという一つのウェブ世界があり、私たちの潜在意識はその端末のコンピュータのようです。そして、モニター画面が顕在意識・・・


インターネットの一つの塊のウェブ世界は、端末コンピュータからの入力の集まりからできていますが、ウェブ世界という一つの大型コンピュータと比べると、大我と呼ばれる宇宙コンピュータは、もともと、すべての情報が保存されており、私たちの潜在意識という端末コンピュータをとおして、その進化の過程に応じたデータを引き出すようになっているような感じです。

宇宙という超大型コンピュータには、生命を生み出したり、進化させたりするプログラムを元々持っています。

そして生み出された端末コンピュータの中にも進化の本能などのプログラが組み込まれています。


コンピュータではいろんなデータのやり取りが行われます。


情報のやり取りをするものは言葉ですから、
聖書の『最初に言葉ありき』も存在形式の比喩です。

『神は神の象に似せて人間を創造した』という言葉も、比喩となります。


ここまで、コンピュータが発達した時代なら、私の比喩を使って表現するのも有りだと思います。


成功哲学とは夢の実現とかいう話がありますが、その時に関わってくるのは、私たちの身体にそなわった潜在意識の中にあるプログラムになります。


聖書の言うような人格神がいて、計らってくれるわけではありません。
すでに、それに必要な、プログラムとコンピュータは組み込まれているからです。


奇跡も、シンクロも与えられたプログラムとコンピュータである個別の端末である潜在意識の働きの範囲で起こります。


私たちの潜在意識という端末コンピュータは、生きるために十分な性能をもっています。
しかし、使いこなせない人も多いようです。

その端末コンピューターを使うスキルが本当は宗教だったのではないでしょうか。


神という超大型宇宙コンピューターを語る前に、端末の使い方を覚えのが先ではないのではないでしょうか。


ある意味では私たちは神です。


しかし、人格神でないことは言っておきたいと思います。


人格神は人間の良心の抽象でありアナロジーです。