三國連太郎さんが遺言で散骨葬を望んでいたそうです。

海に散骨すれば、海がお墓になります。
海はつながっていますから、海をみれば故人を思い出すかもしれません。

散骨なら、お墓の管理のがありませんから、残された人たちのことを考えると、とても良いアイデアだと思います。

わたしの~お墓の前で泣かないでください~♪
という歌の歌詞とダブります。

お骨は、人間であったときの形を少し残していますが、すでに土と一緒です。


もちろん、意識もありません。
誰かがお墓参りに来ても、そのことを認識することはできません。


故人は生きて作品を残しただけです。
お墓を訪れるたびに、残された人々はその作品を思い起こします。


その人がどういう人であったか、自分がどういう人であったかは死によって決定されます。
その人の歴史は作品です。

いろんな人の遺した作品を参考にして、自分という作品を作るのが人生の目的です。


私たち一人ひとりの、身体や、心の中には数え切れない祖先の、生き方や思考が継承されれいます。


私たちが命という身体を継承した時、私たちは潜在意識と顕在意識を継承しました。
潜在意識と顕在意識のあいだで交わされる会話が思考です。


ふと、心に予期しないことが浮かんだ時には、潜在意識が話しかけています。
顕在意識である意識的な自分が考えたと思うでしょうが、潜在意識からの呼びかけです。

それに対して、意識的に何かを思い浮かべたりするときには顕在意識から潜在意識に呼びかけています。

どちらからの発言か、区別をつけるのは難しいですが、潜在意識の自動思考と、顕在意識のマニュアル思考によって、一日に何万回という言葉を私たちは発しています。
もちろん、声に出すほうが少ないでしょう。


世の中には、一人でぶつぶつ何かを常に言っているおかしな人たちもいます。
口には出しませんが私たちも心の中で同じことをしているのです。


生きている間は、私たちの身体を散骨することはないですが、私たちの思考である言葉は常に世の中に散骨するように撒き散らしているわけです。


私たちの後世の人々は、その撒き散らされた言葉や思考を使って、潜在意識や顕在意識を作ってゆくわけですから、良い考え、良い言葉を残して逝きたいものです。


粉のようになった骨が海の水の中に溶けてゆきます。
あるいは土に還って行きます。

魂とは意識であり思考です。
その魂も人類社会の中に還って行きます。

私たちが故人たちに語り変えることは人類全体に語りかけていることになります。
故人が身近な人たちに感謝の意を表することは人類全体に言っていることになります。


私たちは、過去の生きた全ての人たちが遺した遺産です。
精一杯生きることがその遺産に対して感謝することになるのではないでしょうか。