人間は育てられる過程において人間になります。


狼などに育てられた野生児は人間として社会に復帰することは不可能のようです。
ある程度言葉は覚えたとしても、抽象的な言葉は理解することができません。

私たちは、犬と猫の区別が付きます。
犬という言葉や猫という言葉を持っていて、抽象概念を理解しているからです。

これは初めから分かっていたわけではなく、育てられる過程で獲得したものです。

お母さんや、お父さんや、犬をいると、「ほら、ワンちゃん」といって、幼児に声をかけます。
どの犬を見ても、そう言われているうちに、犬という動物の特徴を覚えてゆきます。
猫との違いがなんとなく、わかってきます。

つまり、抽象的な概念を理解するようになります。

そうすると、猫は犬に見えなくなります。

たまに、わかりにくい犬や猫もいるかもしれませんが、必ず区別が付きます。


このような抽象概念を理解することができることによって私たちは思考をすることができます。


言葉は道具であって、思考もまた道具です。
でも真実を明らかにする道具ではありません。

そして、哲学も道具です。


私たちは道具を作り、道具を使う立場です。


道具に振り回されたり、使われてしまってはいけませんね。


言葉という言葉も

心という言葉も

愛という言葉も、

魂という言葉も

平和という言葉も

神という言葉も


み~んな具体的な存在を意味するのではなく、便利な抽象概念という道具です。


神様をどう考えるか?
人間の良心を抽象化したものと考えると災害や戦争は矛盾します。

神様を宇宙の法則と考えると・・・
何が起こっても不思議ではありません。善も悪も基本的には存在しません。



反対語も抽象概念です。
私ごとですが、小学生のころ、これが理解できなかったのを覚えています。
今ではわかりますが、これも、教育によって身につけてきたものなのですね。


思考は利用するもので、苦悩するためのものではありません。


抽象的な自分などというものは存在せず、具体的な捉えきれない自分が存在しているだけです。

自分探し、結局は元のところに戻ってくるだけではないでしょうか。