『疑う』ことこそ、知性の入口と言われます。


疑うということの裏には思考が存在します。
考えることがなければ疑問も湧いてきません。

子供が『なぜ?』、『どうして?』とよく聞くのは何らかの思考をしているからだ。


考えて、『理由がないなんておかしい』という意見を持っているわけです。


こうして、子供は考えて(思考して)成長するものです。
あなたも、私も子供の頃はものごとを真摯に考えていました。



知性とは考える能力のことです。


情報そのまま受け入れるのでは知性があるとは言えません。
(本を呼んで、それをそのまま自分の考えとすることなど・・・)

反対の意見にも気を配って見る必要があります。


心地よいだけで、受け入れて信じてしまうことは知性の欠如です。
また、恐怖から受け入れてしまうことも知性の欠如です。


『思考することがいけないんだ』というスピリチュアル的な思想には注意すべきです。


思考こそが創造の源です。


その恩恵を、私たちは文明や文化によって享受しています。


思考すれば疑問はいくらでも出てきます。
それを解決することによって人類は進化してきました。


ですから、解決できない疑問を持ち続けながら生きなければならないこともあります。
しかし、思考することをやめたら、人間としての尊厳はなくなります。


物事を問題化してみることによって行動もできます。
行動できるということは次のステージに進めるということです。

行動ができないのは具体的な問題を導き出す思考がないからです。
つまり知性とは思考する力ですから、知性がないということになります。

人間として生きるためには、やはり知性は必要だと思います。


子供の頃は良く考えていたことになります。
大人になってからも、あの頃の気持ちを持ち続けたいですね。


正解のない問題もたくさんあります。
頭の柔軟性も同時に保って行きたいですね・・・