聖書という寓話の中の何処かに次のようなことが書いてあったと思います。

寓話の中で神様という素晴らしい存在を創り上げて、
「その神様のカタチに似せて私たち人間は創造された」と・・・そう言われると悪い気はしません。
他の動物たちに対して一種の優越感を感じてしまいます。


でも、それなら、動物たちは何を基準に創造されたのでしょうね。

でも生きている仕組みは一緒ですよね?

確かに動物には人間のようにものを創りだす能力はありません。

たぶん、創造力の力を持っていることに対して、似せて創ったという表現を使ったのかもしれません。

神様がいても、目に見えないスピリチュアルな存在でしかないので、カタチに似せてという表現はメタファーが効きすぎです。


神様は宇宙に働いている法則です。『法』そのものです。

神様などといって、擬人化するからこんがらかるのではないでしょうか。

法そのものですから、人間の中にも動物の中にも平等に働いているはずです。


環境が整えば発現し、成長し、進化し、それ自体を楽しむという性質です。



全てのものが流転し変化しています。

安定は人間の頭の中だけに存在する観念でしかありません。
観念はハードデスクである脳に保存できますが、身体である脳の消滅とともに消えてゆきます。

人間は変化を恐れますが、変化こそが真実です。

変化しないものはありません。
ないものを欲すると飢餓感が生まれます。それが恐怖となります。

絶対的なものがあるとしたら、それは擬人化された神様ではなく『変化』そのものです。
諸行無情です。『万物は流転する』それが真実です。


だから絶対的な真理を発見して見性したとか、悟ったというのは錯覚となります。
もちろん一つのものを発見することによって安定する事ができれば良いでしょう。

でも、そんなことはありえません。真実は常に『変化』することだからです。

その変化をたのしむようになれれば、それが『悟った』ことになるのかもしれません。



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