一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。
死なば多くの実を結ぶべし。

麦が実って、地に落ちても、麦の実として生きているうちは一つ。

変容とともに麦としての成長が始まれば、個としての命は終わり、やがては沢山の麦の穂となることでしょうということなのでしょう。


一粒の麦の実の中には麦畑を作るだけの情報が詰まっているわけです。


私たち人間も初めは小さな受精卵でした。


しかし、その小さな受精卵の中にこの地球上で人間として成長し生きてゆくための智慧というか情報がぎっしり詰まっていたわけです。


私たちの肉体はそんな情報の塊です。
肉体があるのは、その前にそれを作るための情報が存在しているからです。

その情報は目に見えないものですが、遺伝子という物質の形をとって伝えられます。

私たちも麦のように、それを継承し続けて来たのです。

この地球上で生きるために、それぞれの種にとって必要な情報を、それぞれの形で伝えてゆくことが生きることです。


そして、人間だけば肉体だけでなく、外部にも情報を蓄える術を持つことになりました。


文化、文明がそれです。
書籍として残っているもの、博物館に残されているものと、いろいろですが、何度生まれ変わっても閲覧することのできないほどの量の情報を人類全体としては残しています。


どんな情報も継承しなければ花開くことがありません。
そして保護して保存しなければ情報は失われてゆくのです。

私たちの身体の中にも莫大な量の情報が入っています。この地上で生きるためのアメーバ時代から蓄えてきた情報です。

潜在意識という形としてその情報は残っています。


私たちが、神として感じるものは、その莫大な量の情報ではないでしょうか。


そして、その中の核心にある、成長、進化し輝こうという精神(情報、あるいは思考)が神様ではないでしょうか。

物質に見える遺伝子も、そのそこには思考があり、それが物質化している姿ではないでしょうか。

思考が現実化しているというのはあたっているような気がします。


私たちは身体も心も、情報でできていて、それを操作する創造性も持っています。

今日は私たちの存在を、情報の塊という観点から見てみました。