情報というものは伝えられてゆくものです。

伝えられて初めて価値を持ってきます。
何かを伝えるためのものが情報です。

情報が途中で途絶えて消滅することもあります。

情報は保存し守らなければ消えてゆきます。

私たちの身体の中の情報も、パソコンの中の情報も同じです。
肉体というハードディスクの外部に社会という大容量のハードディスクが存在しています。

私たちは、その中の情報に支えられて生きています。


養老孟司氏が『バカの壁』という本の中で、ギリシャの哲人ヘラクレイトスが残した「万物は流転する」という言葉は、今でも、そのまま形をかえずに、つまり変化することなく、残っていると言って、「情報は変化しない」と言っています。
もし、ヘラクレイトスがそのことを知ったら何と言うだろうかというような事を書いていました。

でもやはり、情報もいつかは消えてゆく運命にあるのではないでしょうか?

人類が、それらの歴史を記録し保存し残してきたという経緯があって、変化しないで残っているにすぎないように思います。

だから、ヘラクレイトスの言葉、「万物は流転する」という言葉は間違いがないと思えます。


私たち人類は遺産を残し保存しています。

その遺産はいろんな形で残されており、その殆どに触れることなく、個人の人生は終わります。

私たちの身体も過去の情報の塊です。
この地球上で生きるための情報が組み込まれています。

遺伝子の中に、この地球という星が始まって以来のすべての情報が入っているような気がします。

私たちが、このように考えることができるのも蓄積され伝えれてきた情報があるからです。

単にアメーバ時代や爬虫類時代は考えることができなかったことです。

情報を肉体の中、そして外部に蓄積し、ここまで来ました。

これから、この星が終わるまで、どこまで行くのでしょう。

この星が終わっても、また同じような星が生まれ、同じような事が繰り返されるでしょう。


シジフォスの神話を思い出します。


シジフォスが大きな石を山の頂上まで運びあげます。その石を神様が谷底まで、転がり落としてしまいます。そして、その石をシジフォスがまた頂上まで運びあげます。
それの繰り返しです。

これを、飽き足らず繰り返しているのが宇宙ではないでしょうか。

そうすると過程にしか意味がないような気がします。

継承した全情報を駆使して一生懸命に生きること。

それが生きる意味のような気がします。