「真理」って、何かって考えてみました。

たぶん、真は正しいという意味だと思います。

「理」はと言えば、

「ことわり」と読みます。

ことわりとは何かと考えると、前もって限定を与えておくことだと考えられます。

また、「理」は理由の理でもあります。

理由は前提だと思います。
ですから理由は良い前提ということでしょうか。

良い前提があれば、それに支えられるものが正しいこと、理由があれば正しさの証明ということにまります。


そうすると、「真理」とは「正しい前提」と考えて良いかもしれませんね。

「論理」とは、正しい前提を論じて行くこと・・
理由の理由を探して行く学問と言うことになります。

しかし、絶対的な「真理」というものは存在しません。

なぜなら、論理も行き止まるところがあるからです。

最終的な前提である。誰もが認めざるおえない事実という規定が存在しているからです。

一番最初の前提です。

これはシンプルな常識であったりします。





悟りや覚醒の幻想を求めることも良いでしょう。

でも、行き着くことろはシンプルです。

そのままの自分を受け入れるところが終点です。

犬や猫がそのままの自分を受け入れて生きていることと同じです。

人間には+αとして思考があるだけです。


そのために、複雑に考えてしまっているだけです。

今の自分を否定して、自分を変えようとするのではなく、今の自分を肯定して自分を変えて行こうとすることは何も問題がありません。


今の自分がどんな状況にあろうとも、それを受け入れたうえで、自分を成長させて行こうと考えることができる機能が悟りです。

このままで、自分自身には何も問題がないのだから、頑張ってみようと悟るのが悟りです。

ここのところのスピリチュアルブームで自分探しや、悟りや覚醒などの幻想をもとめて、人間としての軸を失ってしまっている人たちが増えているのが気になります。

私たちは根源的にはつながっていますが、ひとりひとりは神でもなく、別々の肉体として存在しています。

一元論的にものごとを考えることは、怠け者の人間にとって楽なことです。

スピリチュアルな世界に逃げ込みたい気持ちはわかりますが、まとまりがつかない二元論の世界に踏みとどまって欲しいと思います。

疑って疑って未知の領域を追求してゆくのが動物とは違う人間の本質だと思います。

未解決だから人生は面白いのではないでしょうか。