ニュートラルな意識という言葉を使っていた人がいて気になりました。

ニュートラルな意識というものは矛盾していますよね。
意識というものは比較するものがあって初めて存在します。

比較して変化があるからその差異に関して知覚を持ちます。

同じ状態が続いていたら、何も感じなくなります。

意識は変化を感じた時に起こります。
変化がないところに意識は起こりません。

善と悪

明と暗

と二極化したことによって意識は起こります。

あるいはゲシュタルト、

あるものを図と認識し、その他のものを地と認識する働きです。

主題とバックグラウンドといってもいいでしょう。

とにかく分離したとき・・・
変化が生じたとき知覚や意識が生じます。

だからニュートラルは何の意味も持ちません。
ニューエイジ的な現実逃避のレトリックです。


もともと無意識に本能的に動いているのが私たちの本性です。

宇宙はもともと無意識で壮大なことをやり、動いています。

たまたま、人間を創造し、言葉を創造し、まず二極化し、そのあとバラバラにすることによって、意識が生じるようになりました。

意識はたまたま肉体をもって脳が発達したことによって生まれました。

人間のような脳と言葉が生まれなかったら、
そして動物のままだったら、

私たちの感ずるような意識は生まれなかったでしょう。
ただ宇宙が創りだした本能だけによって動いていたことでしょう。

人間は言葉を獲得し、意識を持ったことによって苦悩を感じるようになりました。

本当はそんなことは起こっていないのです。
苦悩ですから、脳が苦しんでいるだけす。

思考が矛盾を起こしているトラブルかもしれません。

ないものをあるかのように考えてしまい苦悩します。

だからニュートラルな意識なんて抽象的で実態のないものは存在しません。

存在しないものを在るとして悩むのは無駄なことです。
すべての問題に答えがあるわけではありません。
答えのない問題を検証し続けたらそれだけで一生が終わってしまいます。

コンピュータで円周率を計算し続けていますが、人間がやるべきものではありません。


ニュートラルな意識ってなんですか?
この意味がわかるほうがおかしいのです。

ニュートラルな考えというなら、比喩として使っているとして中間の考え方といえるでしょう。
折衷案ののことですね。


抽象観念をつくりだし、それが真実に存在しているという前提でノイローゼにならないようにしたいものです。
まず、衣食住からしっかりと考えてゆくのが正常のような気がします。


そして本来の自分探しもやめましょう。
そんなものは存在しません。

たとえそんなものは探究しても宇宙大に大きすぎて知ることができません。


生まれてからの経験、一瞬一瞬の意識と潜在意識による判断と選択で生きてきました。
自分というものがあるとしたら、それで出来上がったものです。

潜在意識の中の過去の思考の全部を知ることはできないし、選択の基準もわかりません。
結局、意識も潜在意識も自分であり、一瞬一瞬選択して生きてた結果が今の自分です。

意識、潜在意識の両面で選択の自由があって選択してきたのです。

ですから、今の自分に対して絶対的な責任は自分にあります。

今が病気であるなら、過去の今までの自分の選択が作り出してきたものです。
別の選択肢もあり、もしかしたら病気にはならなかったかもしれません。

これからの選択によって未来の自分はまた変わってきます。
反省し、正しい選択をしてゆけば病気も治るでしょう。

すべては何を考え何を選択するかにかかっています。

間違った考え・・
ないものをあるものとして考えること。

正しい考え、
あるものをなかったことにしない考え方。

すべては幻想だといって現実逃避すること
問題は問題として受けめ解決してゆくことが正しいことです。

それがどんなに苦しい問題だとしてもです。
そのもんだは、過去に自分が思考や選択が引き起こしたもので、自分に責任があるからです。

他人や環境のせいにしないで今の自分の環境がどんなものであれ受入れ、責任をとってゆくことがすべての解決策になります。


現実のつながりのない抽象てきな概念を使って、いくら思考をしても迷路の奥深くに入ってゆくだけです。


繰り返し繰り返し正しい意識(思)を潜在意識に送り続けること・・

これが大切なように思います。