突然ですが、
「運動」という言葉があります。
これを聞いてあなたは何を思い浮かべましたか?
いろいろ思い浮かべることができると思います。
抽象度の高い言葉だからです。
「運動」だけでは名詞ですが、「運動する」と言うと動詞になります。
「運動」は抽象度の高い名詞ですから、そこに何でも当てはめることが出来ますね。
逆からいうと、何も特定できない言葉です。
「愛」という言葉も同じように抽象的な言葉です。
それらしきモノは何でも当てはめることができます。
「愛する」と、「する」を付けると動詞になります。
「愛」だけでも、抽象的なのに、これを動詞にすると、本当に何を語っているかわからなくなってしまいます。
日本語では区別はありませんが、英語では動詞は二種類に分けられます。
動作動詞と状態動詞です。
動作動詞ははっきりと初めと終わりがあります。
その動作をする前と終わった後があって、その間にその動作があります。
しかし状態動詞は始まりも終も曖昧です。
動作動詞でよく使う進行形の状態です。
存在する。
愛する。
好きである。
嫌いである。
「愛は状態である」と言いますが、当たり前です。
状態とは続いていることであり、進行形です。
「現在」とは今何かが進行している時間的な場所のことです。
状態を表す動詞は元々進行形の意味を持っていますので、英語では現在進行形がありません。
それに対して動作動詞は、「したか、しなかった」が問題です。
そのしている最中を表そうとすると進行形になります。
「死ぬ」という言葉があります。
「死ぬ」という現象は生から死の瞬間に起こる出来事です。生から死に一瞬に移動する動きを表す言葉です。
これも進行形に出来る動詞で、「今まさに死のうとしている」という意味になります。
動詞には二つの種類があるということを話しました。
状態動詞と動作動詞。
状態は続いていること。
動作は動きや変化があることです。
名詞にも二種類あります。
具象名詞と抽象名詞です。
具体的に表すものがあれば具象名詞です。
それに対して抽象名詞は具体性がありません。
人間には抽象観念があるので、抽象名詞があるわけです。
これはあくまでツールです。
抽象名詞で表される対象が実際にあるわけではありません。その対象は実在ではありません。
「愛」という言葉がありますが、これは在る行いの傾向をまとめて抽象化した観念上の存在です。
「愛」だけでは名詞ですが、「する」をつけると
「愛する」という状態名詞になります。
これは「運動する」という言葉と同じように色んな具体的な行動を表しています。
「愛」という名詞は定まった対象を表していいるわけではありませんから、実在の存在ではなく観念上の単なるシンボルです。
実在するのは雑多な具体的な行為だけです。
そしてそれだけが実在します。
実在しないものを主語にして語っても、それは真実ではありません。
「愛」は実在しません。愛という言葉のシンボルにまとめられるような行動や行為が存在しているだけです。
抽象名詞はいろんなイメージをまとめて話せるので便利ですが、具体的な意味は不明であいまいさでいっぱいです。スッキリ感じるのは具体性をそぎ落としたからに過ぎません。
それが真実だからではないのです。
「私たちの本質は愛です。」
「地球の次元が上昇しています。」
これらの言葉に何の疑いももたないとしたら、感覚が現実から遊離している可能性があります。
疑いを持つことがなくなったら思考停止状態です。
思考は人間にだけ与えられました。
その特権を放棄したら、創造性のない操り人形になってしまいます。
具体性をそぎ落とした分スッキリしている抽象観念に心を奪われないで欲しいです。
愛とはなんですか?
神とはなんですか?
自我とはなんですか?
真我とはなんですか?
抽象語であっても、ちゃんと定義して使えば、それなりに役立つツールだと思います。
なんとなく、分かったつもりで使うことは人間を洗脳しようとしている人たちにとっては都合の良い言葉となってしまいます。
「愛」とは与える行為を起こす以前にある考え方の総称ではないでしょうか。
他人の喜びや、成長を喜ぶ心や思考・・・
その行為をみて人々が感じる感情でないでしょうか。
そう考えると、神様がいるとして、私たちに生を与え、成長のためにいろいろと準備してくれているとすると・・・
「神様は愛の存在」と抽象的に言えるかもしれまん。
試練があるから成長できることを考えれば、試練も愛であるということも出来るかもしれません。
あなたは自分で愛の人だと思っていますか?
他人に何かを与えることを習慣にしていますか?
「愛する」とは状態動詞ですから習慣として定着していなければ使うことができません。
実際には行為がなければ成り立たないのが愛ですから、与える行為をずっと習慣にしていますか?
行為は動作動詞です。
英語では動作動詞は状態動詞ではないので現在形を使って表すことができません。
動作動詞の現在形は現在進行形の形で表します。
しかし、例外があります。
その行為が現在習慣になっている場合は現在形をつかいます。つまり状態動詞と同格になります。
たまたま何処かにゆく途中は進行形ですが、
いつもそこに通っているという場合は現在形で表します。
そんな感じで英語はとてもロジカルです。
そういうロジカル性をもたない日本人の私たちは、向こうから来たスピリチュアルな思想を誤解している受け取っている可能性が有ります。
言葉による認識、あるいは言葉という道具を正しく使って欲しいなという思いがあったのでこんな記事になってしまいました。
それではまた。
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「運動」という言葉があります。
これを聞いてあなたは何を思い浮かべましたか?
いろいろ思い浮かべることができると思います。
抽象度の高い言葉だからです。
「運動」だけでは名詞ですが、「運動する」と言うと動詞になります。
「運動」は抽象度の高い名詞ですから、そこに何でも当てはめることが出来ますね。
逆からいうと、何も特定できない言葉です。
「愛」という言葉も同じように抽象的な言葉です。
それらしきモノは何でも当てはめることができます。
「愛する」と、「する」を付けると動詞になります。
「愛」だけでも、抽象的なのに、これを動詞にすると、本当に何を語っているかわからなくなってしまいます。
日本語では区別はありませんが、英語では動詞は二種類に分けられます。
動作動詞と状態動詞です。
動作動詞ははっきりと初めと終わりがあります。
その動作をする前と終わった後があって、その間にその動作があります。
しかし状態動詞は始まりも終も曖昧です。
動作動詞でよく使う進行形の状態です。
存在する。
愛する。
好きである。
嫌いである。
「愛は状態である」と言いますが、当たり前です。
状態とは続いていることであり、進行形です。
「現在」とは今何かが進行している時間的な場所のことです。
状態を表す動詞は元々進行形の意味を持っていますので、英語では現在進行形がありません。
それに対して動作動詞は、「したか、しなかった」が問題です。
そのしている最中を表そうとすると進行形になります。
「死ぬ」という言葉があります。
「死ぬ」という現象は生から死の瞬間に起こる出来事です。生から死に一瞬に移動する動きを表す言葉です。
これも進行形に出来る動詞で、「今まさに死のうとしている」という意味になります。
動詞には二つの種類があるということを話しました。
状態動詞と動作動詞。
状態は続いていること。
動作は動きや変化があることです。
名詞にも二種類あります。
具象名詞と抽象名詞です。
具体的に表すものがあれば具象名詞です。
それに対して抽象名詞は具体性がありません。
人間には抽象観念があるので、抽象名詞があるわけです。
これはあくまでツールです。
抽象名詞で表される対象が実際にあるわけではありません。その対象は実在ではありません。
「愛」という言葉がありますが、これは在る行いの傾向をまとめて抽象化した観念上の存在です。
「愛」だけでは名詞ですが、「する」をつけると
「愛する」という状態名詞になります。
これは「運動する」という言葉と同じように色んな具体的な行動を表しています。
「愛」という名詞は定まった対象を表していいるわけではありませんから、実在の存在ではなく観念上の単なるシンボルです。
実在するのは雑多な具体的な行為だけです。
そしてそれだけが実在します。
実在しないものを主語にして語っても、それは真実ではありません。
「愛」は実在しません。愛という言葉のシンボルにまとめられるような行動や行為が存在しているだけです。
抽象名詞はいろんなイメージをまとめて話せるので便利ですが、具体的な意味は不明であいまいさでいっぱいです。スッキリ感じるのは具体性をそぎ落としたからに過ぎません。
それが真実だからではないのです。
「私たちの本質は愛です。」
「地球の次元が上昇しています。」
これらの言葉に何の疑いももたないとしたら、感覚が現実から遊離している可能性があります。
疑いを持つことがなくなったら思考停止状態です。
思考は人間にだけ与えられました。
その特権を放棄したら、創造性のない操り人形になってしまいます。
具体性をそぎ落とした分スッキリしている抽象観念に心を奪われないで欲しいです。
愛とはなんですか?
神とはなんですか?
自我とはなんですか?
真我とはなんですか?
抽象語であっても、ちゃんと定義して使えば、それなりに役立つツールだと思います。
なんとなく、分かったつもりで使うことは人間を洗脳しようとしている人たちにとっては都合の良い言葉となってしまいます。
「愛」とは与える行為を起こす以前にある考え方の総称ではないでしょうか。
他人の喜びや、成長を喜ぶ心や思考・・・
その行為をみて人々が感じる感情でないでしょうか。
そう考えると、神様がいるとして、私たちに生を与え、成長のためにいろいろと準備してくれているとすると・・・
「神様は愛の存在」と抽象的に言えるかもしれまん。
試練があるから成長できることを考えれば、試練も愛であるということも出来るかもしれません。
あなたは自分で愛の人だと思っていますか?
他人に何かを与えることを習慣にしていますか?
「愛する」とは状態動詞ですから習慣として定着していなければ使うことができません。
実際には行為がなければ成り立たないのが愛ですから、与える行為をずっと習慣にしていますか?
行為は動作動詞です。
英語では動作動詞は状態動詞ではないので現在形を使って表すことができません。
動作動詞の現在形は現在進行形の形で表します。
しかし、例外があります。
その行為が現在習慣になっている場合は現在形をつかいます。つまり状態動詞と同格になります。
たまたま何処かにゆく途中は進行形ですが、
いつもそこに通っているという場合は現在形で表します。
そんな感じで英語はとてもロジカルです。
そういうロジカル性をもたない日本人の私たちは、向こうから来たスピリチュアルな思想を誤解している受け取っている可能性が有ります。
言葉による認識、あるいは言葉という道具を正しく使って欲しいなという思いがあったのでこんな記事になってしまいました。
それではまた。