愛とは何かと考えると
赦す力だと思います。

キリストは愛を説きました。

「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなければならないのです。」と言いました。

これは究極の愛でしょう。
そして究極の行動でしょう。

愛は行動の中にしか現れないからです。

私たちの本質は「愛です。光です。」と言ってもなんの意味もありません。

「罪」とは攻撃して傷つけることです。


肉体的にせよ、精神的にせよ傷つけることは罪です。

肉体的にははっきりしているのですが、精神的には複雑なところがありませす。

精神的には、その人自身の考え方というフィルターを通して入力されるからです。

攻撃をされていないのに、自らの免疫力で自らを攻撃してしまうことがあります。

自分で自分自身を攻撃しているのに気づかない場合ああります。

その原因は、思考にあります。

考え方を変えることによって、取り去ることのできる苦しみはたくさんあります。

たとえば劣等感、これは単に自分で自分を攻めているだけです。

信念化していると気がつかないものです。
人間関係に良い影響は与えません。

関係とはコミュニケーションです。

一番基本的なコミュニケーションが自分自身とのコミュニケーションになります。

次にくるのが、他人とのコミュニケーションですが、これは自分とのコミュニケーションとの延長になります。

最後にくるのが神とのコミュニケーションと言わていますが、自分とのコミュニケーションを無視してこれはありえません。

やはり、自分とのコミュニケーションが基本となります。

これをクリアしないと、他人とのコミュニケーションもうまくゆきません。

一気に神とのコミュニケーションをもとめても本末転倒です。

イエスはこうも言いました。
「自分を愛するように、隣人を愛しなさい。」と

まず、自分を愛することがどういうことなのかを理解しなければ他人を愛することはできないということです。

自分を愛せていなかったら、他人も愛せないということです。

それでは、自分を愛するとはどういうことかというと、ルイーズ・ヘイは「自分をジャッジしないこと」と言っていますが、これは結構誤解を生んでいるような気がします。

ジャッジとは「判断する」と言う意味ですが、判断や分析自体は別に悪いことではないと思います

ただ、自分を攻撃するようなジャッジを避ければ良いわけです。

劣等感などは自分自身を攻撃しているジャッジなので、なくす必要があります。
劣等感をもったままで、人を本当に愛することはできません。

今の自分で問題ないということです。
今の自分以外、今ここの時点でありえないからです。

今ここで自分を見つめて分析判断して、もっと良い状態があれば目指せば良いわけです。

自分であれ、他人であれ、攻撃から良い関係は生まれません。

攻撃は罪です。

罪に対しては何らかの罰が待っています。

自分の行動がみんなの心を傷つけてしまったら、責任を負わなければなりません。

責任を持つとは、罰を受ける覚悟を持つことです。

もしあなたが今苦しんでいるとしたら、何らかの罰を受けていることになります。

あなたには罪があったのです。

あなたの行いや考え方の中に、あなたか、他人かあるいは神に対しての攻撃的要素があったのです。
たとえ、あなたに対して攻撃があったとしても、それを赦しましたか?

あなたが、あなた自身に対して、低い評価をしませんでしたか?

あなたが、どんなに失敗しても、あなた自身を赦しましたか?


赦すという行動が愛です。
思い出はありません。

許すということを想いと思っていたら、あなたは愛を誤解しています。

許すという行為をしたときにあなたは愛の状態にある時です。
思考の中で許すという決定がなされたときも、それは行為です。

私たちの本質は愛で光だと何の根拠もなく想っても、そこに行為が無い以上、愛の状態にあることはありません。

右の頬を打たれたら、左の頬を出す行為・・・

イエスはそれを、究極の愛を表すための喩えとしたのでしょう。

赦すことが愛です。
好きになることではありません。

攻撃すること傷つけることが罪です。
罪にはなんらかの罰が回ってきます

自分を責めないことが出発点です。
それが自分を愛することです。

どんな環境であろうと受け入れてください。
環境への愚痴は神様への攻撃となります。

罪と愛は対極にあります。

その対極性を表して「原罪」と言うのではないでしょうか。

「罪と罰」はもともと心の中に存在しているのですね。


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