人間、言葉を使う限り思考しないということはないと思います。
言葉を使っている限り、それは思考をしているのだと思います。
それが論理的であろうが、非論理的であろうが・・・
自我とは思考システムです。
だから、自我とよばれる現象自体、良い悪いはないのではないだろうか。
自分本位の考えもできれば、
協調的な考えもできる。
論理的な思考もできれば、
非論理的な思考も受け入れる。
判断は論理的な思考だ。
論理の中には選択がある。
非論理的な考えでも受け入れれば、それは選択であるから思考したことになる。
意識の中にも潜在意識の中にも思考システムが存在している。
何らかの最終的決断があって、ことが進んでゆくのだと思います。
肉体の中に存在している潜在意識は、いかにして生命を維持するか常に思考しています。
ホメオスターシス、恒常性を維持しようとしています。
それは無意識下に行われる思考です。
潜在意識の中の思考なくしては、顕在意識の思考もありえません。潜在意識の思考に支えれれています。会話をしている時は、かってに潜在意識から必要な言葉が浮かんできます。
例え、顕在意識が思考をしなくても、潜在意識は常に思考を続けているわけです。
そして、結論を顕在意識に送ってきたリします。
自分の潜在意識なのに理解がないと、ハイヤーセルフなどと呼んで、自分とは別のものと考えがちです。
悪い思考の内容を見て自我と呼んだりしますが、それなら潜在意識の中でその思考を続けている機能そのものを真我と呼ぶことができます。
自我は思考の内容ですが、真我は意識的あるいは無意識的な思考機能そのものです。
だからニューエイジ思想の思考を否定する考えは矛盾しています。
無意識化の思考はつねに行われているからです。
「気づき」と言っても、それは無意識下で行われている思考に過ぎません。
元々ある真実というものに気づくのではなく、自分の無意識下の思考に気づくだけです。
彼らが彼らの思想を言葉を使って表現している時点で意識的にせよ、無意識的にせよ、その思考の機能を使って思考していることになり、思考を否定することとは矛盾となります。
それを彼らに言っても多分理解できないでしょう。
どのみち、言葉を使うのであれば論理的な言葉を使えば、現実逃避しなくても問題は解決するはずです。
どちらかというと、彼らの考えは科学や哲学というより宗教です。
とにかく、自分たちが作った物語を信じているだけです。
ニューエイジの使う言葉は確かに論理思考を停止させるものばかりです。
思考することがあたかも間違っているかのように彼らは主張します。
しかし、そういう彼らにも非論理的な思考があります。
なぜなら、言葉を使って思想を表現しているからです。
そして、論理性のない思考は人を現実から幻想の世界にいざなう麻薬のようなものとなります。
「思考麻薬」とでも表現でしたくなります。
その思想を受け入れることによって、確かに幸せな気分になるかもしれませんが、だんだん現実の生活から乖離してしまうのではないでしょうか。
真我とは、まともに論理的に客観的に考えることのできる機能です。
それができない人は、真我が壊れていて、自分がない人たちです。
神も宇宙の法則も真我ではありません。
神も宇宙も自分とは別のものです。
我と言う言葉はそれを表しています。
神・宇宙=我としたら、言葉の論理機能自体が崩壊します。論理としての言葉が使えません。
真我は私たちの命の中にある思考機能です。
それは肉体と共に滅びます。
神は与え、そして奪います。
歴史を、そして現実を忠実に見ていればそれが分かります。
それを素直に受け入れるのが本当のスピリチュアルの精神ではないでしょうか。
間違った思考は単なる毒か、麻薬です。
ニューエイジの思想は、罪悪感のある人間には心地よいです。心地よいだけに中毒となります。
「思考麻薬」と名付けてみました。
最近スピリチュアルにイかれてしまって壊れてしまっている人が多いです
そうなると、トリツク島がありません。
とても気の毒に思うのですが、どうすることもできません。
タバコ、アルコール、麻薬をやめさせるのが大変なのと同じです。

言葉を使っている限り、それは思考をしているのだと思います。
それが論理的であろうが、非論理的であろうが・・・
自我とは思考システムです。
だから、自我とよばれる現象自体、良い悪いはないのではないだろうか。
自分本位の考えもできれば、
協調的な考えもできる。
論理的な思考もできれば、
非論理的な思考も受け入れる。
判断は論理的な思考だ。
論理の中には選択がある。
非論理的な考えでも受け入れれば、それは選択であるから思考したことになる。
意識の中にも潜在意識の中にも思考システムが存在している。
何らかの最終的決断があって、ことが進んでゆくのだと思います。
肉体の中に存在している潜在意識は、いかにして生命を維持するか常に思考しています。
ホメオスターシス、恒常性を維持しようとしています。
それは無意識下に行われる思考です。
潜在意識の中の思考なくしては、顕在意識の思考もありえません。潜在意識の思考に支えれれています。会話をしている時は、かってに潜在意識から必要な言葉が浮かんできます。
例え、顕在意識が思考をしなくても、潜在意識は常に思考を続けているわけです。
そして、結論を顕在意識に送ってきたリします。
自分の潜在意識なのに理解がないと、ハイヤーセルフなどと呼んで、自分とは別のものと考えがちです。
悪い思考の内容を見て自我と呼んだりしますが、それなら潜在意識の中でその思考を続けている機能そのものを真我と呼ぶことができます。
自我は思考の内容ですが、真我は意識的あるいは無意識的な思考機能そのものです。
だからニューエイジ思想の思考を否定する考えは矛盾しています。
無意識化の思考はつねに行われているからです。
「気づき」と言っても、それは無意識下で行われている思考に過ぎません。
元々ある真実というものに気づくのではなく、自分の無意識下の思考に気づくだけです。
彼らが彼らの思想を言葉を使って表現している時点で意識的にせよ、無意識的にせよ、その思考の機能を使って思考していることになり、思考を否定することとは矛盾となります。
それを彼らに言っても多分理解できないでしょう。
どのみち、言葉を使うのであれば論理的な言葉を使えば、現実逃避しなくても問題は解決するはずです。
どちらかというと、彼らの考えは科学や哲学というより宗教です。
とにかく、自分たちが作った物語を信じているだけです。
ニューエイジの使う言葉は確かに論理思考を停止させるものばかりです。
思考することがあたかも間違っているかのように彼らは主張します。
しかし、そういう彼らにも非論理的な思考があります。
なぜなら、言葉を使って思想を表現しているからです。
そして、論理性のない思考は人を現実から幻想の世界にいざなう麻薬のようなものとなります。
「思考麻薬」とでも表現でしたくなります。
その思想を受け入れることによって、確かに幸せな気分になるかもしれませんが、だんだん現実の生活から乖離してしまうのではないでしょうか。
真我とは、まともに論理的に客観的に考えることのできる機能です。
それができない人は、真我が壊れていて、自分がない人たちです。
神も宇宙の法則も真我ではありません。
神も宇宙も自分とは別のものです。
我と言う言葉はそれを表しています。
神・宇宙=我としたら、言葉の論理機能自体が崩壊します。論理としての言葉が使えません。
真我は私たちの命の中にある思考機能です。
それは肉体と共に滅びます。
神は与え、そして奪います。
歴史を、そして現実を忠実に見ていればそれが分かります。
それを素直に受け入れるのが本当のスピリチュアルの精神ではないでしょうか。
間違った思考は単なる毒か、麻薬です。
ニューエイジの思想は、罪悪感のある人間には心地よいです。心地よいだけに中毒となります。
「思考麻薬」と名付けてみました。
最近スピリチュアルにイかれてしまって壊れてしまっている人が多いです
そうなると、トリツク島がありません。
とても気の毒に思うのですが、どうすることもできません。
タバコ、アルコール、麻薬をやめさせるのが大変なのと同じです。