観察という行為が意識であります。

故に、眠っているときには観察の行為ができないので無意識です。

私たちは覚醒しているときにのみに観察者の立場にあります。

眠っているときには観察者の立場にありません。


日常生活でも無意識で行動しているのがほとんどです。
後から意識して考えると、ガスの止めすれ、鍵の締め忘れなどが気になったりします。

だいたいは、無意識にちゃんとやっていることが多いです。

精神的な面でも無意識にいろいろ行なっています。無意識に悩んで無意識に苦しんでいます。

たまにその自分に気づくことがあります。
そしてそこで苦しんでいる自分の他に、それを観察している自分が居ることに気づきます。

それを観察している自分が本当の自分であり、永遠に存在している存在などとニューエイジなどでは考えています。

意識体という存在を別個に考えているわけです。
もし私たちん本質が永遠に間断なく存在する存在だとしたら、どうして睡眠時に意識がないという状態があるのか理由がわかりません。

睡眠時には死んではいないので無意識が働いています。しかし、意識がこれを観察し認識することができていないのは事実です。

私たちの本質は潜在意識です。
そして覚醒状態の時に、観察者の立場をとったときに意識が現れてきます。

潜在意識は宇宙の本質でもありますから、これはこれからも永劫の存在するでしょう。

しかし、個別の意識は、意識体と呼べるような実体ではないので肉体の死とともに消滅します。

肉体を抜け出て、自分のアセンションした幸せの状態を意識できるということはありません。

観察者や意識体という考え方はニューエイジが仏教の考え方の中からパクッたものでしょう。

若いころに読んだ松原泰道さんの『無』という本の中に観察者という言葉が出てきていたように記憶しています。

科学は物事をバラバラに分解して観察するものですが、バラバラにしたものは死んだものであり、生きている状態の本質を知ることはできない。私たちは命であり、ゆえに観察の対象に成り得ないし、逆に私たちは観察者という立場のものであり、自分を観察の対象として悩むことは間違っていると言っていたとおもいます。

そうすると自分探しということも奇妙なことになります。

仏教は輪廻転生する霊魂というものを否定していますので、観察者という意識体の永続性を否定しています。命ある間の期限付きの観察者です。それも寝ていたり、気を失っている時を除いての・・

『今ここ』と言う考え方も仏教からのパクリです。
これはスピリチュアルというよりも、現に実在している世界は『今ここ』だけにあり、それは常に変化し続けていいるものだという諸行無常の考え方を表すための一つに過ぎなかったと思います。

普通に考えれば当たり前のことで、とりたてて問題にするものではないと思います。



今ブームのスピリチャルはこのニューエイジの思想を元にしています。
思考が嫌いな人、他人のせいにして傷つく人、努力や自分と戦うことが嫌いな人には、心地よい言葉ばかりが用意されています。

こうして文章を書く事も、対立した考え方が頭の中でまとまらないときには、凄いストレスを感じます。だからいろんなことから逃避したい気持ちもわかります。


自分の中で二つの思いがぶつかれば、それが苦悩になります。
しかし、それは必要だから問題になっているのだと思います。
それから逃避することは、永遠に問題を残すことになります。

スピリチュアルの考え方は逃避の受け皿です。
それはビジネスにも繋がっています。
ただ、搾取されるだけで問題は解決しません。

問題は自分に何らかの答えを教えています。
問題は自分で戦って解決するものです。

問題のない人生に意味はありません。

強くなければ生きてゆけません。
強くなければ愛することはできません。

『私たちの本質は愛です』と言っている方に質問です。具体的にはどういうことを言っているのでしょうか?根拠を説明できますか?

そしてあなたは強いですか?
愛のためなら、どんなこととも戦う心の準備は出来ていますか?

それとも
素敵な仮想の愛の自分に酔いしれて
ただ、『私たちは一つです。』『愛です。』『感謝です。』『ありがとう』
とお題目を唱えているだけですか?

機械的に連呼される、それらの言葉には何の意味もありません。


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