人間の思考には抽象するという働きがあります。

万物や出来事の中から一つの働きや類似点を取り出して名前を付けます。

そして、その働きは進化します。

完全な円や三角形、あるいはその他の形も現実には存在しませんが、
観念の中で純粋に抽象化された形が存在します。

現実に、あるいは具体的な存在としてはありません。

『平和』や『神』という言葉もそうでしょう。

現実に起こっている現象から抽象化されネーミングされたものです。

完全な平和は存在しません。
神の存在も、宇宙で起こっている働きを抽象化したものです。

だだ、聖書が出来た時代はまだ抽象化が進化していませんでした。

現在では別のネーミングでもオーケーなほど科学も文化も進化しています。

まだ、人格化している段階は抽象化が未発達です。

神話では、人格化された神々が出てきました。

悪魔や天使も心の中で起こっていることを抽象しネーミングして説明しようとした比喩です。
まだ人間的な存在になぞらえているので抽象度は原始的です。


物理学の最先端の理論などはまさに抽象化された世界です。
その世界では、『0』も完全な『円や三角形』や『時間』も存在します。


進化した脳がそうさせているのです。


最先端のものと、未開のものをゴッチャにして思考している人たちもいます。


神の存在を想定するのも

次元を想定するのも

ワンネスを想定するのも

すべて人間の脳が物事や事象を抽象化して捉えようとする性質から来たものです。
それらの物が真実として存在するということではなく、認識方法の進んだ一つの方法であるというだけです。



抽象化の前には複雑な現実がありあます。
それを整理して認識しようとするのが抽象化の目的です。
潜在脳の働きです。

いたづらに複雑化して混乱してしまっては本末転倒です。

ゼロという数字があると仮定して考えると便利です。
コンプリートな図形も現実には存在しません。
どんな媒体で表すにせよそれは実現しません。
媒体にはミクロの次元で凸凹があるからです。

私たちの存在が一つだと考えることも良いとおもいます。
けれど、それはあくまで抽象的な概念です。
現実には存在しません。
現実にはバラバラです。

人間は平和という抽象概念をもっています。それをツールとして、それに向かってゆくことができます。
実際には、複雑な現実と向き会って勝ち取って行かなければなしません。
現実を無視しては永遠に実現しないことです。

『悟り』についても抽象概念と言わざる負えません。
その状態も複雑、雑多でしょう。
これも、徹底的に現実に向き合わなければなりません。

人間の脳がツールの一部として作った、抽象概念に振り回され、現実逃避している人々がいることを危惧しています。

スピリチュアルブームで『感謝』、『ありがとう』の言葉が飛び交っているのですが、本当に現実に向き合っているのでしょうか?

自分にとって、本当にみじかな人々と向き合っているのでしょうか?

それは、ライバルであれ、家族であれ・・・

応援いつもありがとうございます。