前回の記事で人間の目の性能について触れました。

現在のデジカメより、画素数では劣っています。

画素数が少ないということは脳に送られるデータも少ないということです。

それにフォーカスしていないところのデータは抜け落ちています。


それでも、それだけのデータで情報を正確に脳は把握して映像化します。
脳に蓄積されているデータがいかに莫大かわかります。
人間の文化がもっている写真や絵画の情報も相当役立っているような気がします。

その参照されるデータは経験で蓄積したものだけではないような気もします。

なぜなら、私たちの意識をとおして潜在意識が見ているものは、潜在意識がつくりだした世界でもあるからです。潜在意識の中には人類の歴史も入っていると思われます。
たとえばユングが言うところの『元型』など・・も


その自動的に行われる情報処理は偶然行われるはずも無く、そこには叡智があります。

肉体的な視覚の構造にしても偶然に発生するということは考えられません。

もちろん創造主を考えなければなりません。
それは事実であり・・・

創造主を含めて私たちなのか?
創造主と私たちは別なのか?

どちらと考えても、事実は変わらないでしょう。

創造主という表現を使うと、どうしても別の存在に感じます。

しかし、潜在意識という見方をすれば私たちの一部ということが言えます。

そうすると私たち自身が神と言うこともできます。


意識が何にフォーカスするかは環境によって異なってきます。

異なった環境から収集した情報から魂(考え方)が形成されます。

外界から入ってきた刺激に対して、魂と潜在意識との間で情報処理され、見える現実を創造します。

現実は新たに創造され続けているわけです。
潜在意識は魂の中のプログラム(信念)を考慮に入れますから、信念を変えることによって見えてくるものが違ってくることになります。

外界のものを見ているようで、実際には信念の中を見ているようなところがあります。
そうすると二つの目で見ているというより、その刺激をうけて別のものを見ていることになりますから、もう一つの視点というか、比喩的にいえば第三の目の視点でものを見ているということもできます。

視覚から入ってくる情報はシンプルで目の荒いものです。
蓄積した情報で処理しなければ実際に見えているような、なめらかな世界は存在できません。
もちろん、外界には色も境界もありません。そこにあるのは光という人間の視覚がなければ波動エネルギーの流れでしかありません。

目は単なる器官です。
見ているのは心です。
見るとは見えているのではなく、心が創造行為をしているのです。

私たちがこのように美しい世界を見ることを体験できるのは、
長い年月をかけて潜在意識が情報処理を繰り返し、情報を蓄えてきたからです。

私たちの顕在意識を潜在意識の一部だとすると、私たちは神なのかもしれませんね。
お互い協力して情報処理をしているところをみるとそんな気もします。

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