スピリチュアル難民というのは私の造語です。
ヒーリングやスピリチュアル系のセミナーを渡り歩いているにもかかわらず、心が未だ病んでいる人たちです。
禅のほうの言葉で『見性』という言葉があります。
人間に本来そなわる、根源的な本性を徹見することで、禅の悟り・・とウィキペディアにはあります。
ということは、至高体験とは別すね。
『徹見する』とあります。
徹底的に観察して極めることを言っています。
これがなければ『見性』とは言えません。
人間の本性なんてちょっと見(至高体験)だけで見切れるわけがありません。
仏教界でも未だに課題です。
一時的な見性に固執して、その本性を観察し続けることを止めれば、それは悟りの挫折です。
臨済宗などでは見性した後の『悟後の修行』を重視しているそうです。
思考して徹見してゆく問題はたくさんあります。
人間界で起こっているすべての現象が根源的な本性の現れなわけですから・・・
釈迦が、思考停止型の瞑想では見性を得られず、思考徹底型の瞑想に切り替えて見性を得た話は前に記事で書いたことがあります。
誰もが個性をもって生まれ、もし見性したならば、それぞれの表現の仕方をすると思います。
しかし、現代のスピリチュアルリーダーたちは、
皆、紋切り型な言葉を使って話しているだけです。
よく考えれば昔から良識として伝えられてきたものがほとんどです。
学んでいて、見性したのではなく、事故や苦悩のどん底におちて、非日常に気づいただけです。
取り越し苦労をしていたことへの強烈な安堵感が
彼らの至高体験です。
ニュートラルに戻っただけです。
普段からニュートラルに近いところにいる人にはできない体験です。
しかし、彼らもその体験を続けることはできません。一度ニュートラルに戻ったからです。
正常な人間でしたら、感覚は常に変化しています。同じ経験を続けていると、その感覚がぼやけてくるからです。そのことはゲシュタルトについての記事を読んでいただけると納得いただけるかもしれません。
私の記事を読んで下さっているかたは、私の自我についての考え方を理解してくれていると思います。
自我は顕在意識だという考え方です。
自我という機能は認識の機能です。
そして、私たちの潜在意識が神の性質を持っているということです。
仏教などでも自我を悪者にしている感がありますが、それは自我の一部の働きだと私は考えています。自我の働きの一部の結果をそうジャッジしただけのことです。
自我がなければ全ての認識がなりたちません。
『至高体験』の認識はその対極があってはじめて可能です。ここにも自我の認識があります。
釈迦も修行の苦しさの極限の体験がありました。
普通のスピリチュアルリーダーは交通事故的な偶発的な至高体験から始まりました。
その『至高体験』に固執し、それを確かなものにしようと、勉強を始めます。勉強といっても、真理を追求しようとするものではありません。
その貴重な体験を権威付けたいという欲求に駆られたのでしょう。固執です。
自分の体験を特別なものとして、説明できる考え方だけを探し勉強するようになります。
そしてそれはスピリチュアル系の考え方の中に見出しました。
スピリチュアル系の知識は範囲がせまいですからすぐマスターできます。
そして、みんなが同じことを言うことになります。
そしてそれに疑いを持ちません。これは信仰の問題になります。
イワシの頭も信心からという世界です。
信じ続ければ信念になります。
そして、セミナーを通して信者を作ります。
そして宗教化します。
信者が教祖の信念をさらに強化します。
最近は凄まじいスピリチュアルブームです。
そのまま受け入れて疑ったことがないのでしょうか?
疑うことが学ぶことの態度だと思うのですが・・・
同じような言葉、がネット上でも氾濫しています。
オウム真理教のような密室的な集団が起こらなければ良いですが・・
最初は、私もこのブログにスピリチュアルリーダーたちの動画をアップしていました。
初めはみんな同じことを言っていることに感動したからです。
それに良識にかなっているところがありましたし。
しかし、そのことに、しだいに疑問を持つようになりました。
飽きてきたと言えば飽きたわけです。
飽きなければ成長がないことも確かです。
話を戻し締めたいと思います。
あなたの周りにいませんか?
スピリチュアル難民。
ヒーリングやスピリチュアルセミナーを渡り歩いているのですが、未だに苦悩している人・・
私にも身近にいました。
『いました』というのは現在距離をおいているからです。
素直に話を聞きません。
あの人は見性している、していないのジャッジしまくりです。
もちろん『いまここ』も話題の中心です。
私はある程度人生経験もあるのでアドバイスするのですが・・・
『それは私をジャッジしている』と言うことで聞く耳をもちません。
私の話している言葉の内容を聞くのではなく、別の問題にすり替えてしまうのでしょうね。
自分の方がスピリチュアルの勉強をしてきたという自負がまさって、上からものを言われたという感じになっているようです。
変な知識が入ってしまうと大変です。
私の方は損得や勝ち負けで議論するのは嫌いですからぶつかってしまいます。
中途半端な知識をばらまいているスピリチュアルリーダーたちにも責任があるように思います。
。
彼らの教えが事態を逆に混乱させているように感じます。
混乱者を増やしく欲しくありません。
そんなセミナーに何度行っても何も解決しません。
セミナーには似たような傾向を持った人たちが集まります。
そこでできた友達と面識が」できて連絡を取るようになります。
一種のサロンと化します。
これも足かせになって離れなれなくなります。
精神的に健康になるためには、つらくても精神的に健康な人たちと付き合わなければならないと思います。
私の知り合いは、そこで知り合った方からの紹介で『飲尿』まで始めました。ここ関係も宗教的色彩が濃いです。本当に宗教は麻薬です。
私はそんなものは何も必要ないと言いました。
彼女は聞く耳を持ちませんでした。
そこで私は彼女をまた手放しました。
彼女からはたくさんのトラブルと気づきをいただきました。
縁があればまた再会するでしょうし、縁がなければこれが最後となるでしょう。
彼女とは再会と別れを繰り返していました。
再開はいつも向こうからの連絡です。
トータルでは20年以上の付き合いになります。
今回は心身共にボロボロになって帰ってきました。
こんな身体で誰にも会えないという感じでした。
セミナー関係で出会った人たちとも会っていなかったようです。彼女は人の目を気にする性格だからです。
最初は私のアドバイスを素直に聞いていて、身体も徐々に回復してきました。
回復して元気になると、また彼女の囚われが頭をもたげてきました。そこさえ手放せば絶対解決と私が思うところなのですが、抵抗を示します。
今回は3ヶ月くらいの間でしたが、3度ほどぶつかりました。三度目で私の方から手放すことを決心しました。
落ちるところま落ちないと分からない人たちがたくさんいるようです。
心を鬼にすることも結構慣れてきました。
スピリチュアルリーダーたちのところでホッとできた感覚に固執して抜け出せなくなるという弊害が出ていてとても懸念しています。
スピリチュアルリーダーたちは本当に無責任な発言をしてるかたが多いという感想を持っています。
安易なモノの方が好まれるのでしょうね。
反省なしで自分を支持してくれる考えを求めてしまうようです。
『そのままの自分でいい』というのは、誤った思考をしていても良いということではないと思います。
自分を守ろうとしている誤った思考なんかもっていなくてもいいと言う意味ではないのですか?
捨てること、手放すことを学ばないといけないですよね。
イエスも釈迦も至高体験を語ってビジネスはしませんでした。
本当のスピリチュアルは
セミナーにも、サロンにもありません。
スピリチュアルは
自分の心と感情を目を背けないで見つめることです。
アセンションも
至高体験も
見性も
次元上昇も
パラレルワールドも
ハイヤーセルフも
チャネリングも
etc・・・も
必要ありません。
そんな言葉に惑わされないでください。
それらの言葉に囚われた時点で『今ここ』から乖離しているはずです。
スピリチュアルな存在は目の前にあります。
あなたの身体、そのまわりの環境。
誰も意識しないのにかってに存在しています。
かってに密接に繋がっていて、かってに活動しています。
宇宙の全ての物がつながっていて一つの有機体として機能している事実。
それ以外は何もありません。
その意味で自我という機能が起きている現象に名前を付け分類し、存在と認めたそれらの存在は、全ては幻影です。
実相は幻影に隠れて存在していますが、その気になれば誰でも分かります。
本当は、あなたも私もありません。
その一つの有機体の中の身体をもった人間の顕在意識が縁どりし、分割して、それに名前を付けただけ・・・。
分割して名前をつければ
幻影としての存在が生まれます。
そして認識が生まれます。
しかし、その認識以前に存在しているものがあるということです。
それを空と呼んでいるのかもしれません。
そして色とは顕在意識のお絵かきです。
そうすると空はキャンバスですね。
私たちはその二つが合体した存在。
つまり、お絵描きさんですからアーチストです。
それが本当の私たちの姿です
キャンバスであり、絵の具であり、画家・・
認識以前に存在している、あなたの周りのものを感じてみてください。
宇宙と自分が存在していることを感じてください。
言葉を使わないで、それを感じているもの、それがスピリチュアルな実相です。
あなたが自分を忘れているときには、スピリチュアルな実相の中に埋没して存在しています。
実相に戻ってかってに働いているじょうたいです。
あなたが自分という形而上の存在を忘れているとき、あなたは宇宙と一体となって生きているのです。そしてそのときあなたはパワフルです。
スピリチュアルは日常に転がっています。
宇宙エネルギーをいただくとか、宇宙と一体となるとか・・
それは自我という働きの迷妄です。
自我は正しく使いましょう。
あなたは元々、宇宙と一体ですし、エネルギーもいただいています。
ただ間違った自我の働きが、それを感じるのを妨げているだけです。
そう云う体験を求めてセミナーに参加すること自体、引き寄せの法則から言えば、それを自分が持っていなことを表明していることになり、永遠にたどり着かないことを意味します。
不足していると言って、
求めないことです。祈らないことです。
自分に何か足りないから、何かを足そうと考えていたら、その『足そうと言う考え』を引いてみてください。
引き算で解決してしまう問題が結構あるのではないでしょうか。
応援いつもありがとうございます。
ヒーリングやスピリチュアル系のセミナーを渡り歩いているにもかかわらず、心が未だ病んでいる人たちです。
禅のほうの言葉で『見性』という言葉があります。
人間に本来そなわる、根源的な本性を徹見することで、禅の悟り・・とウィキペディアにはあります。
ということは、至高体験とは別すね。
『徹見する』とあります。
徹底的に観察して極めることを言っています。
これがなければ『見性』とは言えません。
人間の本性なんてちょっと見(至高体験)だけで見切れるわけがありません。
仏教界でも未だに課題です。
一時的な見性に固執して、その本性を観察し続けることを止めれば、それは悟りの挫折です。
臨済宗などでは見性した後の『悟後の修行』を重視しているそうです。
思考して徹見してゆく問題はたくさんあります。
人間界で起こっているすべての現象が根源的な本性の現れなわけですから・・・
釈迦が、思考停止型の瞑想では見性を得られず、思考徹底型の瞑想に切り替えて見性を得た話は前に記事で書いたことがあります。
誰もが個性をもって生まれ、もし見性したならば、それぞれの表現の仕方をすると思います。
しかし、現代のスピリチュアルリーダーたちは、
皆、紋切り型な言葉を使って話しているだけです。
よく考えれば昔から良識として伝えられてきたものがほとんどです。
学んでいて、見性したのではなく、事故や苦悩のどん底におちて、非日常に気づいただけです。
取り越し苦労をしていたことへの強烈な安堵感が
彼らの至高体験です。
ニュートラルに戻っただけです。
普段からニュートラルに近いところにいる人にはできない体験です。
しかし、彼らもその体験を続けることはできません。一度ニュートラルに戻ったからです。
正常な人間でしたら、感覚は常に変化しています。同じ経験を続けていると、その感覚がぼやけてくるからです。そのことはゲシュタルトについての記事を読んでいただけると納得いただけるかもしれません。
私の記事を読んで下さっているかたは、私の自我についての考え方を理解してくれていると思います。
自我は顕在意識だという考え方です。
自我という機能は認識の機能です。
そして、私たちの潜在意識が神の性質を持っているということです。
仏教などでも自我を悪者にしている感がありますが、それは自我の一部の働きだと私は考えています。自我の働きの一部の結果をそうジャッジしただけのことです。
自我がなければ全ての認識がなりたちません。
『至高体験』の認識はその対極があってはじめて可能です。ここにも自我の認識があります。
釈迦も修行の苦しさの極限の体験がありました。
普通のスピリチュアルリーダーは交通事故的な偶発的な至高体験から始まりました。
その『至高体験』に固執し、それを確かなものにしようと、勉強を始めます。勉強といっても、真理を追求しようとするものではありません。
その貴重な体験を権威付けたいという欲求に駆られたのでしょう。固執です。
自分の体験を特別なものとして、説明できる考え方だけを探し勉強するようになります。
そしてそれはスピリチュアル系の考え方の中に見出しました。
スピリチュアル系の知識は範囲がせまいですからすぐマスターできます。
そして、みんなが同じことを言うことになります。
そしてそれに疑いを持ちません。これは信仰の問題になります。
イワシの頭も信心からという世界です。
信じ続ければ信念になります。
そして、セミナーを通して信者を作ります。
そして宗教化します。
信者が教祖の信念をさらに強化します。
最近は凄まじいスピリチュアルブームです。
そのまま受け入れて疑ったことがないのでしょうか?
疑うことが学ぶことの態度だと思うのですが・・・
同じような言葉、がネット上でも氾濫しています。
オウム真理教のような密室的な集団が起こらなければ良いですが・・
最初は、私もこのブログにスピリチュアルリーダーたちの動画をアップしていました。
初めはみんな同じことを言っていることに感動したからです。
それに良識にかなっているところがありましたし。
しかし、そのことに、しだいに疑問を持つようになりました。
飽きてきたと言えば飽きたわけです。
飽きなければ成長がないことも確かです。
話を戻し締めたいと思います。
あなたの周りにいませんか?
スピリチュアル難民。
ヒーリングやスピリチュアルセミナーを渡り歩いているのですが、未だに苦悩している人・・
私にも身近にいました。
『いました』というのは現在距離をおいているからです。
素直に話を聞きません。
あの人は見性している、していないのジャッジしまくりです。
もちろん『いまここ』も話題の中心です。
私はある程度人生経験もあるのでアドバイスするのですが・・・
『それは私をジャッジしている』と言うことで聞く耳をもちません。
私の話している言葉の内容を聞くのではなく、別の問題にすり替えてしまうのでしょうね。
自分の方がスピリチュアルの勉強をしてきたという自負がまさって、上からものを言われたという感じになっているようです。
変な知識が入ってしまうと大変です。
私の方は損得や勝ち負けで議論するのは嫌いですからぶつかってしまいます。
中途半端な知識をばらまいているスピリチュアルリーダーたちにも責任があるように思います。
。
彼らの教えが事態を逆に混乱させているように感じます。
混乱者を増やしく欲しくありません。
そんなセミナーに何度行っても何も解決しません。
セミナーには似たような傾向を持った人たちが集まります。
そこでできた友達と面識が」できて連絡を取るようになります。
一種のサロンと化します。
これも足かせになって離れなれなくなります。
精神的に健康になるためには、つらくても精神的に健康な人たちと付き合わなければならないと思います。
私の知り合いは、そこで知り合った方からの紹介で『飲尿』まで始めました。ここ関係も宗教的色彩が濃いです。本当に宗教は麻薬です。
私はそんなものは何も必要ないと言いました。
彼女は聞く耳を持ちませんでした。
そこで私は彼女をまた手放しました。
彼女からはたくさんのトラブルと気づきをいただきました。
縁があればまた再会するでしょうし、縁がなければこれが最後となるでしょう。
彼女とは再会と別れを繰り返していました。
再開はいつも向こうからの連絡です。
トータルでは20年以上の付き合いになります。
今回は心身共にボロボロになって帰ってきました。
こんな身体で誰にも会えないという感じでした。
セミナー関係で出会った人たちとも会っていなかったようです。彼女は人の目を気にする性格だからです。
最初は私のアドバイスを素直に聞いていて、身体も徐々に回復してきました。
回復して元気になると、また彼女の囚われが頭をもたげてきました。そこさえ手放せば絶対解決と私が思うところなのですが、抵抗を示します。
今回は3ヶ月くらいの間でしたが、3度ほどぶつかりました。三度目で私の方から手放すことを決心しました。
落ちるところま落ちないと分からない人たちがたくさんいるようです。
心を鬼にすることも結構慣れてきました。
スピリチュアルリーダーたちのところでホッとできた感覚に固執して抜け出せなくなるという弊害が出ていてとても懸念しています。
スピリチュアルリーダーたちは本当に無責任な発言をしてるかたが多いという感想を持っています。
安易なモノの方が好まれるのでしょうね。
反省なしで自分を支持してくれる考えを求めてしまうようです。
『そのままの自分でいい』というのは、誤った思考をしていても良いということではないと思います。
自分を守ろうとしている誤った思考なんかもっていなくてもいいと言う意味ではないのですか?
捨てること、手放すことを学ばないといけないですよね。
イエスも釈迦も至高体験を語ってビジネスはしませんでした。
本当のスピリチュアルは
セミナーにも、サロンにもありません。
スピリチュアルは
自分の心と感情を目を背けないで見つめることです。
アセンションも
至高体験も
見性も
次元上昇も
パラレルワールドも
ハイヤーセルフも
チャネリングも
etc・・・も
必要ありません。
そんな言葉に惑わされないでください。
それらの言葉に囚われた時点で『今ここ』から乖離しているはずです。
スピリチュアルな存在は目の前にあります。
あなたの身体、そのまわりの環境。
誰も意識しないのにかってに存在しています。
かってに密接に繋がっていて、かってに活動しています。
宇宙の全ての物がつながっていて一つの有機体として機能している事実。
それ以外は何もありません。
その意味で自我という機能が起きている現象に名前を付け分類し、存在と認めたそれらの存在は、全ては幻影です。
実相は幻影に隠れて存在していますが、その気になれば誰でも分かります。
本当は、あなたも私もありません。
その一つの有機体の中の身体をもった人間の顕在意識が縁どりし、分割して、それに名前を付けただけ・・・。
分割して名前をつければ
幻影としての存在が生まれます。
そして認識が生まれます。
しかし、その認識以前に存在しているものがあるということです。
それを空と呼んでいるのかもしれません。
そして色とは顕在意識のお絵かきです。
そうすると空はキャンバスですね。
私たちはその二つが合体した存在。
つまり、お絵描きさんですからアーチストです。
それが本当の私たちの姿です
キャンバスであり、絵の具であり、画家・・
認識以前に存在している、あなたの周りのものを感じてみてください。
宇宙と自分が存在していることを感じてください。
言葉を使わないで、それを感じているもの、それがスピリチュアルな実相です。
あなたが自分を忘れているときには、スピリチュアルな実相の中に埋没して存在しています。
実相に戻ってかってに働いているじょうたいです。
あなたが自分という形而上の存在を忘れているとき、あなたは宇宙と一体となって生きているのです。そしてそのときあなたはパワフルです。
スピリチュアルは日常に転がっています。
宇宙エネルギーをいただくとか、宇宙と一体となるとか・・
それは自我という働きの迷妄です。
自我は正しく使いましょう。
あなたは元々、宇宙と一体ですし、エネルギーもいただいています。
ただ間違った自我の働きが、それを感じるのを妨げているだけです。
そう云う体験を求めてセミナーに参加すること自体、引き寄せの法則から言えば、それを自分が持っていなことを表明していることになり、永遠にたどり着かないことを意味します。
不足していると言って、
求めないことです。祈らないことです。
自分に何か足りないから、何かを足そうと考えていたら、その『足そうと言う考え』を引いてみてください。
引き算で解決してしまう問題が結構あるのではないでしょうか。