至高体験を語って生業にしている人たちがいます。
『至高体験教』とでもいう宗教でしょうか?
信者は至高体験を目指します。

信者は至高体験をしたかどうかに関心をもつようになります。

至高体験が絶対的な真実を知ったことになっています。信者はそれを目指します。

信者は、自分は至高体験をしていないから、悟っていないと感じ、悟りを求めます。

しかし、求めることは、悟っていないことを意味します。
欠乏感が信念になっています。
神様はイエス(信念を現実化)しか言いませんから、求めても悟ることはありません。

宗教はサロンです。
社交の場となります。教祖はその提供者です。
一時的には最高の癒しの場となるでしょう。
『そのままでいいよ』『生きていることに目的はないんだから』『すべては決まっているんだから』etc

創造性とは無縁な言葉が受け入れられます。
対処療法的な言葉です。

成功哲学のセミナーを受けたほとんどの人が成功していません。

成功した数パーセントのほとんどの人も、結局セミナーを行うことで成功したに過ぎません。
成功したことを売りにします。

ですから主観的な成功体験を売ることになります。主観的な成功体験だから再現性がなく、数パーセントのだけが、それを繰り返します。

落ちこぼれた人たちは苛まれます。自分の努力が足りないのだと・・・

宗教においてもそうです。いつまでも信者状態、生徒状態です。

悟りとか、成功とかには程遠い状態です。

教祖様の悟りに至る至高体験ですが・・
教祖様はそれを語って商売にしているのですが・・

至高体験とはいかほどのものでしょうか?

難行、苦行の末、結局このままで自分が『このままでいいんだ』と気づいたとしたらどうでしょうか?

たぶん、普通では考えられない至福感を感じますよね。

至高体験をした人々は、たいてい事故に遭うとか、精神的に追い詰められているとか、苦境の中にいるときに、『その至福感』を体験します。

その落差といったら凄まじいものがあると思います。その落差が秘密です。

人間が感じるのは結局、変化や落差の部分です。
ギャップがあればあるほど至福感を感じます。

砂漠で飢餓状態の時の、ただの水だけでも神でしょう。

人間、当たり前だと思っているときには至福感など感じません。感謝の感情が幸福感をもたらすのもそのためです。
『有り難い』とは『得難い』です。

だから、至高体験を伴う悟りなどしなくても、悟れるのです。たぶんもう悟っているかもしれません。感謝の感情がもてたら,それは悟ったことです。

地道に努力をしてきた人は、ギャップなど感ぜず、自然と成長しているものです。

そんなに至福感を感じたいのであれば一度落ちるところまで落ちてみてください。
その復活の過程で感じることができるでしょう。

まずは身体で試してみたはいかがですか?

運動をしないで怠惰に暮らして筋肉を怠けさせます。筋肉が衰えてくると身体の調子が悪くなりますから。

そしたら、運動を少しづつ始めてください。
最初は筋肉痛などありませすが、その復調の段階で、健康に向かって変化している体に対して気持ち良さを感じます。健康感を味わえます。

これを繰り返して楽しんでいる人もいるようです。

毎日、適度の運動をしているときには感じられないものです。(でもこれが大切です。)

あの右上がりの高度経済成長のときにも、それは感じられました。
今は逆ですから、みんな元気がありません。

人間は成長、進化の本能を持っているからかもしれません。

とにかく、急激な成長や、急激な修復が起こるときに至福感を感じるものです。

『そのままでいいよ』と言われると、『癒されます。』が・・・
癒されるということは、治癒を意味し、単にニュートルに戻っただけです。それ以上ではありません。

癒されたら、あとは目標をもって成長することが次の段階です。

至高体験で見る幻視は夢と同じす。
夢と現実のあいだである変性意識状態のときには少し現実味を増すだけで、主観にすぎません。
たまたま、そのとき自我が崩壊したに過ぎません。
自我が強い人ほど、ちょっとの崩壊でギャップを感じますから教祖になります。
自我の弱い人でしたら、パニック障害症候群です。
至高体験をした人は短命の人や自殺した人もいます。

現実離れすると、身体の健康管理がおろそかになる傾向があるようです。
やはり人間は身体を無視しては生きることはできません。


至高体験は薬物を利用して起こすこともできます。
シャーマンなども使っていたことがあります。

至高体験を求めないでください。
今のままで十分な体験をしているのですから・・


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