放物線を描いて飛んでいるボールをイメージしていただけますか?
イメージしていただけましたか?
飛んでいるボールというのは動いているボールです。
動いてるということは、どこか一点にとどまっていないことですよね。
でもボールが存在するということは、どこかの一点
に存在していなければいけないことでもあるのです。
でも、どこかの場所にあるということは、止まっていることですよね。
変化して、動いているものは、存在していると同時に存在していてはいけないんです。
ある一点に在ると同時に無いことですから・・。
これは矛盾です。
思考を使って考えてしまえば、全ての物が矛盾を含んでいることになってしまいます。
統一されていた出来事が思考によって分断された結果矛盾が生じます。
思考は生きているものを解剖して観察しているようなものですから、生きているそれ自体を知ることにはなりません。
それをわきまえた上での挑戦となります。
宇宙は諸行無常で常に動きを止めることがないということはご存知ですよね。
一瞬たりとも止まることがありません。
これも分析したらいろんな矛盾がでてきて頭が混乱してしまいます。
そんな宇宙の中で私たちは命をいただき、個々が存在するという錯覚を楽しむことができます。
だから私たちの存在も矛盾に満ちています。
個であり全体でもある。
すべてがつながっていると言えばワンネスであるし、個々があると言えばその中のワンピースだし・・
ワンピースがなかたら全体がありえないとか・・
私たちはある期間、一定の個体を保ちながら生き続けることができます。
これは実感として私は感じています。
その間、私たちの身体の内部の物質は入れ替わり続け、何年かたつうちには全く別の物質で構成されていると言われています。パターン・インテグ二ティと言われている現象です。形として統合されているという意味だと思います。
ろうそくの炎が最後まで同じ形をしているようなものです。
私自身の潜在意識がそうしているのか神の意識がそうさせているのか不思議です。
この不思議な人間存在の存在している場所ですが・・・
場所といっても時間的な問題としてのスペースの話ですが・・
よく「今ここ」とか言われていますよね。
過去が記憶という情報でしかなく、未来が想像であったなら、実存するのは現在の今の瞬間だけということでなのでしょう。
よく考えてみると「今ここ」というのは過去と未来の間の時間のスペースのことになります。
「今」という言葉は「過去」と「未来」という時間の概念が同時にないと成り立ちません。
ですから、時間を肯定しないと出てこない概念で矛盾しています。
宇宙自体が諸行無常で動いている以上、時間の次元は存在しなければおかしいと私は考えます。
「今ここ」という概念は過去に縛られる人のために作られたものかもしれません。
でも、そう考えなくても、過去に拘束されない方法はいろいろあると思います。
時間が存在しても、過去は実存していないということはできます。
過去は単なる記憶という情報として残っているだけです。
大事なことは、今私たちが、この身体を持って実存していると言うことです。
「今ここ」という過去と未来の隙間ではなく、空間的にドンとスペースをとって実在しています。
間断なく変化し続けている宇宙空間が実在していると考えるのが自然のような気がします。
この身体を感じている意識と、この身体がその証拠です。
これを信じても問題はないではないでしょうか。
意識はこの自分の身体のものです。この身体が自分です。
最近スピリチュアルブームで身体が置き去りにされている感じがします。
心身一如で一つのもののはずだと思うのですが・・
巷では魂のアセンチョンとか騒いでいますがビジネスや自我の臭いがプンプンします。
他人を優先する気持ち
感謝の気持ち
友愛の気持ち
これをモットーにしたら、シンプルで十分な気がします。
みんながそれに留意するだけで人間社会の進化が起こると思います。
他人の気持ちを優先すると書きましたが、
まずはフィフティ・フィフティで上出来じゃないでしょうか。
半分譲歩するところから始めてみましょう。
今日もテーマがぼけてしまいました。
これに懲りずにまた書かせていただきます。

イメージしていただけましたか?
飛んでいるボールというのは動いているボールです。
動いてるということは、どこか一点にとどまっていないことですよね。
でもボールが存在するということは、どこかの一点
に存在していなければいけないことでもあるのです。
でも、どこかの場所にあるということは、止まっていることですよね。
変化して、動いているものは、存在していると同時に存在していてはいけないんです。
ある一点に在ると同時に無いことですから・・。
これは矛盾です。
思考を使って考えてしまえば、全ての物が矛盾を含んでいることになってしまいます。
統一されていた出来事が思考によって分断された結果矛盾が生じます。
思考は生きているものを解剖して観察しているようなものですから、生きているそれ自体を知ることにはなりません。
それをわきまえた上での挑戦となります。
宇宙は諸行無常で常に動きを止めることがないということはご存知ですよね。
一瞬たりとも止まることがありません。
これも分析したらいろんな矛盾がでてきて頭が混乱してしまいます。
そんな宇宙の中で私たちは命をいただき、個々が存在するという錯覚を楽しむことができます。
だから私たちの存在も矛盾に満ちています。
個であり全体でもある。
すべてがつながっていると言えばワンネスであるし、個々があると言えばその中のワンピースだし・・
ワンピースがなかたら全体がありえないとか・・
私たちはある期間、一定の個体を保ちながら生き続けることができます。
これは実感として私は感じています。
その間、私たちの身体の内部の物質は入れ替わり続け、何年かたつうちには全く別の物質で構成されていると言われています。パターン・インテグ二ティと言われている現象です。形として統合されているという意味だと思います。
ろうそくの炎が最後まで同じ形をしているようなものです。
私自身の潜在意識がそうしているのか神の意識がそうさせているのか不思議です。
この不思議な人間存在の存在している場所ですが・・・
場所といっても時間的な問題としてのスペースの話ですが・・
よく「今ここ」とか言われていますよね。
過去が記憶という情報でしかなく、未来が想像であったなら、実存するのは現在の今の瞬間だけということでなのでしょう。
よく考えてみると「今ここ」というのは過去と未来の間の時間のスペースのことになります。
「今」という言葉は「過去」と「未来」という時間の概念が同時にないと成り立ちません。
ですから、時間を肯定しないと出てこない概念で矛盾しています。
宇宙自体が諸行無常で動いている以上、時間の次元は存在しなければおかしいと私は考えます。
「今ここ」という概念は過去に縛られる人のために作られたものかもしれません。
でも、そう考えなくても、過去に拘束されない方法はいろいろあると思います。
時間が存在しても、過去は実存していないということはできます。
過去は単なる記憶という情報として残っているだけです。
大事なことは、今私たちが、この身体を持って実存していると言うことです。
「今ここ」という過去と未来の隙間ではなく、空間的にドンとスペースをとって実在しています。
間断なく変化し続けている宇宙空間が実在していると考えるのが自然のような気がします。
この身体を感じている意識と、この身体がその証拠です。
これを信じても問題はないではないでしょうか。
意識はこの自分の身体のものです。この身体が自分です。
最近スピリチュアルブームで身体が置き去りにされている感じがします。
心身一如で一つのもののはずだと思うのですが・・
巷では魂のアセンチョンとか騒いでいますがビジネスや自我の臭いがプンプンします。
他人を優先する気持ち
感謝の気持ち
友愛の気持ち
これをモットーにしたら、シンプルで十分な気がします。
みんながそれに留意するだけで人間社会の進化が起こると思います。
他人の気持ちを優先すると書きましたが、
まずはフィフティ・フィフティで上出来じゃないでしょうか。
半分譲歩するところから始めてみましょう。
今日もテーマがぼけてしまいました。
これに懲りずにまた書かせていただきます。