叙述とは
物事について順を追って述べることですが・・
人間は言葉を覚えることによって、五感からの体験を言葉で叙述することによって記憶するようになりました。
だからどんな体験をしたかを聞かれればそれを語ることができます。
本当に人間は物語が好きです。
つまり、人間は言葉を使ってエピソードを作ることによって記憶しているわけです。
エピソードを作らないと記憶できないわけです。
エピソードを作ることによって、体験したと思えるわけですね。
そういう意味では、みんな物語のクリエーターです。
同じ体験でもネガティブなエピソードで記憶する人もいればポジティブなエピソードで記憶する人もいます。
また、記憶はエピソードを作る材料になりますから、ネガティブなエピソードを作る人は、感じ方がそれに影響をうけますから、ますますネガティブなエピソードを作る傾向を強めてゆきます。
こちらの傾向の人は物事を複雑にして悩んだりしているんですが、もしかしたらそれを楽しんでいるのかもしれません。なにしろ人間は誰しも物語作家ですから・・・
同じ出来事を体験しても、叙述の仕方で体験の感じ方が変わってきます。
だったら、よく考え直して楽しいエピソードに書き換えて記憶したいものです。
ネガティブな出来事でも、何かポジティブな要素はないか探して書き直せばいいだけですが、このことに、なかなか目覚めることができないのも人間です。
これが自由であることに目覚めたらそれは『悟り』です。
私たちが真実と言われるものを追求しても、言語システムの枠を超えることはできません。
それは言語というものが不完全なものだからです。
雪の降らない国では雪を表す言葉がなかったり、イヌイット(エスキモー)の種族の言語の中には雪質の違いを表す言葉が20種類以上もあったリします。
日本語では粉雪、ぼたん雪、みぞれ雪・・あんまりないですよね。
言語の中にない言葉は、そのものが存在しないのと同じです。また一つのものを細かく分割し、ネーミングして(ゲシュタルトして)存在させてしまうこともできます。
だからといって宇宙にある全てのものや出来事に全部名前を付けて語っても私たちの人生に何の意味もありません。
言葉が不完全なものであり、全てのものを表現できるものでない以上、
自分が楽しく感じるように出来事を叙述することは、全くの自由です。
出来事に意味はなく、
ネガティブな状況もたんなる自分が考えた叙述(表現)の一つでしかありません。
ネガティブシンキングの方が現実を把握しているみたいに感じますが、それは錯覚です。
どういうわけか、ネガティブシンキングの方が現実を正確に捉えているように思えたりするんですよね。若い頃の私がそうでした。そのほうが自分が賢そうに思えたりして・・・
どちらにしても、小さな言語構造の枠の中であれこれやっているわけです。
もちろん私もこうして言語を使って書いているわけです。
私はこんなふうに考えたら、納得した(自分を説得できた)という程度のものです。
この中に人間として共通なものがあり、ヒントになったりしたらいいなという思います。
意味不明でしたら、ごめんなさい。

おまけです、
おもしろ動画を紹介します。
エピソード記憶についてです。
物事について順を追って述べることですが・・
人間は言葉を覚えることによって、五感からの体験を言葉で叙述することによって記憶するようになりました。
だからどんな体験をしたかを聞かれればそれを語ることができます。
本当に人間は物語が好きです。
つまり、人間は言葉を使ってエピソードを作ることによって記憶しているわけです。
エピソードを作らないと記憶できないわけです。
エピソードを作ることによって、体験したと思えるわけですね。
そういう意味では、みんな物語のクリエーターです。
同じ体験でもネガティブなエピソードで記憶する人もいればポジティブなエピソードで記憶する人もいます。
また、記憶はエピソードを作る材料になりますから、ネガティブなエピソードを作る人は、感じ方がそれに影響をうけますから、ますますネガティブなエピソードを作る傾向を強めてゆきます。
こちらの傾向の人は物事を複雑にして悩んだりしているんですが、もしかしたらそれを楽しんでいるのかもしれません。なにしろ人間は誰しも物語作家ですから・・・
同じ出来事を体験しても、叙述の仕方で体験の感じ方が変わってきます。
だったら、よく考え直して楽しいエピソードに書き換えて記憶したいものです。
ネガティブな出来事でも、何かポジティブな要素はないか探して書き直せばいいだけですが、このことに、なかなか目覚めることができないのも人間です。
これが自由であることに目覚めたらそれは『悟り』です。
私たちが真実と言われるものを追求しても、言語システムの枠を超えることはできません。
それは言語というものが不完全なものだからです。
雪の降らない国では雪を表す言葉がなかったり、イヌイット(エスキモー)の種族の言語の中には雪質の違いを表す言葉が20種類以上もあったリします。
日本語では粉雪、ぼたん雪、みぞれ雪・・あんまりないですよね。
言語の中にない言葉は、そのものが存在しないのと同じです。また一つのものを細かく分割し、ネーミングして(ゲシュタルトして)存在させてしまうこともできます。
だからといって宇宙にある全てのものや出来事に全部名前を付けて語っても私たちの人生に何の意味もありません。
言葉が不完全なものであり、全てのものを表現できるものでない以上、
自分が楽しく感じるように出来事を叙述することは、全くの自由です。
出来事に意味はなく、
ネガティブな状況もたんなる自分が考えた叙述(表現)の一つでしかありません。
ネガティブシンキングの方が現実を把握しているみたいに感じますが、それは錯覚です。
どういうわけか、ネガティブシンキングの方が現実を正確に捉えているように思えたりするんですよね。若い頃の私がそうでした。そのほうが自分が賢そうに思えたりして・・・
どちらにしても、小さな言語構造の枠の中であれこれやっているわけです。
もちろん私もこうして言語を使って書いているわけです。
私はこんなふうに考えたら、納得した(自分を説得できた)という程度のものです。
この中に人間として共通なものがあり、ヒントになったりしたらいいなという思います。
意味不明でしたら、ごめんなさい。
おまけです、
おもしろ動画を紹介します。
エピソード記憶についてです。