今日は、日本人で初のヨガ直伝者で、ヨガの修行を通して、不治の病を克服した中村天風さんという方の話です。
物事の捉え方を変えることによって、思考を変えることによって病気を克服してしまったのです。
世界中を治療法を探しあぐねて出会えず、失意の中、「死ぬのなら日本で死のう」と帰省につき、その船の中でヨガのマスターカリアッパに偶然出会い、インドについてゆきます。そして、カリアッパ氏について修行の末についに目覚めます。
目覚めることによって、もちろん病は消えてしまいました。
最初はなかなか教えてくれなかったそうです。汚れたコップの水を捨ててから、キレイな水を貰いにくるように言われていたようです。汚れた水の入ったコップに新しい水は入れることはできないからということで、思い込みや誤った信念を捨てて、素直な聞く耳をもってからと言う意味でしょう。
修行が始まってからも、どうしてもカリアッパ氏の言っているような境地になれませんでした。
釈迦がいくら苦行を重ねても悟れないと諦めた瞬間に似ていますが・・・・。
長い修行の苦悩の末、中村天風は諦めて体を大の字に投げだして空を見あげました。
これ以上できないという限界だったのでしょう。
人事を尽くした瞬間とも言えます。
その瞬間に天風は思わず見上げた空の美しさに見とれます。
心は一瞬のうちに幸せな少年時代にフォーカスしていました。
ハッとわれに帰ってみると、師匠の言っていたことが出来ていることに気づきます。
空以外、何も心の中に入ってこなかった瞬間に気づきます。
その美しい空に心をフォーカスしている瞬間なにも忘れていて、まわりの騒音も鳥の声も何もかも消えていました。
その瞬間、彼にとって病気は存在していなかったのです。
病気のことをすっかり忘れたいた天風がいました。
カリアッパ氏はそのことを指摘します。
その瞬間、天の声は聞いたか?と天風に訪ねます。
何も聞こえなかったと天風が答えると。
天の声とは聞こえないものだと言いました。天の声とは完全な静寂だと言いました。
天風は何も聞こえない瞬間を体験しました。
何かに我を忘れて集中しているとき、私たちは完全に神様と一体となっています。
時は止まったかのようです。
その時私たちは神の声を聞いているのです。何かを学んでいるのです。
思いや思考の対象となっていないものは存在しないのです。
そんなことはない、とネガティブな思考にフォーカスすれば、それは存在します。
私たちの受けてきた教育からはネガティブなものにフォーカスする癖がついています。
メディアも暗いニュースばかりながしていますからね。
スピリチュアルな考えでは、私たちは今の一瞬に存在しているだけです。
その一瞬を繰り返しているだけです。
もちろんエネルギーの形としては変化しています。
次の一瞬も、その次の一瞬も楽しいことにフォーカスして病気のことを忘れていると病気は治ってしまうということです。その間、思考が病気の存在を認めていないことになります。
感じていることが実現するのです。
思考は現実化すると言いますが、その逆も言えます。
考えていないものは現実から消えてゆきます。
楽しいことの体験の連続は、身体に活力を与え本来の肉体の設計どうりの姿に戻してゆきます。
本来私たちは健康ですから、健康な私たちに戻ってゆきます。
人間の心と身体はつながっているのです。
そうです。完全に病気のことを忘れているうちに、いつの間にか病気が治っていると気づくのです。
病気を忌み嫌って、排除しようとすることはネガティブな感情です。
病気も自分の一部で何かを教えてくれているのであり、そのポジティブな側面を探し出して楽しんでゆくことが大切です。
自分を愛するとは自分の状況や境遇を受け入れることです。
受け入れるとは、批難しないことです。
これはディマティーニ・メソッドが教えているところですね。
中村天風も同じことを伝えようとしているような気がします。
中村天風さんの本は若い頃に何か一冊買って読んだ覚えがあります。
どんな本を読んだかも覚えていませんが、やはり彼のエピソードが印象強く心の中に残っていました。
病気であることを本当に忘れ去ったとき、病気が治ったという話です。
どんなにハンディキャップがあっても人生は楽しめます。
生きていることほど以上に楽しいことはないそうです。

中村天風さんについて語っている動画があったので紹介します。清水克衛さんと言って、本屋さんの店長さんらしいです。
大きな支えになった中村天風さんとこれからの家族について。

物事の捉え方を変えることによって、思考を変えることによって病気を克服してしまったのです。
世界中を治療法を探しあぐねて出会えず、失意の中、「死ぬのなら日本で死のう」と帰省につき、その船の中でヨガのマスターカリアッパに偶然出会い、インドについてゆきます。そして、カリアッパ氏について修行の末についに目覚めます。
目覚めることによって、もちろん病は消えてしまいました。
最初はなかなか教えてくれなかったそうです。汚れたコップの水を捨ててから、キレイな水を貰いにくるように言われていたようです。汚れた水の入ったコップに新しい水は入れることはできないからということで、思い込みや誤った信念を捨てて、素直な聞く耳をもってからと言う意味でしょう。
修行が始まってからも、どうしてもカリアッパ氏の言っているような境地になれませんでした。
釈迦がいくら苦行を重ねても悟れないと諦めた瞬間に似ていますが・・・・。
長い修行の苦悩の末、中村天風は諦めて体を大の字に投げだして空を見あげました。
これ以上できないという限界だったのでしょう。
人事を尽くした瞬間とも言えます。
その瞬間に天風は思わず見上げた空の美しさに見とれます。
心は一瞬のうちに幸せな少年時代にフォーカスしていました。
ハッとわれに帰ってみると、師匠の言っていたことが出来ていることに気づきます。
空以外、何も心の中に入ってこなかった瞬間に気づきます。
その美しい空に心をフォーカスしている瞬間なにも忘れていて、まわりの騒音も鳥の声も何もかも消えていました。
その瞬間、彼にとって病気は存在していなかったのです。
病気のことをすっかり忘れたいた天風がいました。
カリアッパ氏はそのことを指摘します。
その瞬間、天の声は聞いたか?と天風に訪ねます。
何も聞こえなかったと天風が答えると。
天の声とは聞こえないものだと言いました。天の声とは完全な静寂だと言いました。
天風は何も聞こえない瞬間を体験しました。
何かに我を忘れて集中しているとき、私たちは完全に神様と一体となっています。
時は止まったかのようです。
その時私たちは神の声を聞いているのです。何かを学んでいるのです。
思いや思考の対象となっていないものは存在しないのです。
そんなことはない、とネガティブな思考にフォーカスすれば、それは存在します。
私たちの受けてきた教育からはネガティブなものにフォーカスする癖がついています。
メディアも暗いニュースばかりながしていますからね。
スピリチュアルな考えでは、私たちは今の一瞬に存在しているだけです。
その一瞬を繰り返しているだけです。
もちろんエネルギーの形としては変化しています。
次の一瞬も、その次の一瞬も楽しいことにフォーカスして病気のことを忘れていると病気は治ってしまうということです。その間、思考が病気の存在を認めていないことになります。
感じていることが実現するのです。
思考は現実化すると言いますが、その逆も言えます。
考えていないものは現実から消えてゆきます。
楽しいことの体験の連続は、身体に活力を与え本来の肉体の設計どうりの姿に戻してゆきます。
本来私たちは健康ですから、健康な私たちに戻ってゆきます。
人間の心と身体はつながっているのです。
そうです。完全に病気のことを忘れているうちに、いつの間にか病気が治っていると気づくのです。
病気を忌み嫌って、排除しようとすることはネガティブな感情です。
病気も自分の一部で何かを教えてくれているのであり、そのポジティブな側面を探し出して楽しんでゆくことが大切です。
自分を愛するとは自分の状況や境遇を受け入れることです。
受け入れるとは、批難しないことです。
これはディマティーニ・メソッドが教えているところですね。
中村天風も同じことを伝えようとしているような気がします。
中村天風さんの本は若い頃に何か一冊買って読んだ覚えがあります。
どんな本を読んだかも覚えていませんが、やはり彼のエピソードが印象強く心の中に残っていました。
病気であることを本当に忘れ去ったとき、病気が治ったという話です。
どんなにハンディキャップがあっても人生は楽しめます。
生きていることほど以上に楽しいことはないそうです。
中村天風さんについて語っている動画があったので紹介します。清水克衛さんと言って、本屋さんの店長さんらしいです。
大きな支えになった中村天風さんとこれからの家族について。