反射と言う言葉を聞いていろいろイメージするとおもいますが・・
反射というのは途中何度も考え直さないことだから効率的でとても俊敏な反応ができます。
わかりますよね。
間違って暑いヤカンに手を触れてしまったときなどに熱いと感じる前に無意識のうちに手を引っ込めているあれです。
あれは身体に組み込まれている無条件反射というものですが、
私たちの意識の本体の働きにはその反射機構を作り出すという働きがあります。
後天的に獲得する、いわゆる条件反射というものです。
一度覚えてしまえば考えなくてもできるという便利なやつです。これがあるので人間は高度なことに挑戦できるわけです。いちいち一からやっていたら進歩も進化もすることができません。
自転車や自動車の運転などを考えてください。
運転しながら他のことをすることが可能ですよね。
いつも感心しています。勝手に赤信号に反応して、かってにブレーキを踏んでいる私を観察します。
私たちがプログラム自体でないから観察できるわけです。私たちの本質は観察する意識です。
パソコンにプログラムを組み込んでやると、かってに仕事をしてくれるのと一緒です。
私たちの意識は自動的にプログラムを作ってしまう機能をもったコンピューターのようなものです。
コンピュータのプログラムはロボットと呼ばれることがあります。
私たちの中には勝手に思考するプログラムがあります。つまりプログラム化された思考があります。
プログラムは途中選択の余地がない思考です。
もう結論が決まっている思考です。
信念とも呼ばれています。
思い込みとも言われています。
そんな中の最大のプログラムに自我プログラムがあります。
自我ロボットと言ってもいいでしょう。
自我は本当の自分ではなくプログラムです。
信念を集積したプログラムロボットです。
自我は私たちのエッセンスでは有りません。
本当の私たちではありません。
プログラムですから一種のツールです。
結構人生を楽しめるツールですが、ちょっと間違うとフリーズしてしまいます。
私たちはパソコンに中のハードデスクのようなものです。そしてもともと自動でプログラムを作り出す機能を持っています。
パソコン自体に相当するのは私たちの身体でしょうか。五感などの色々なインターフェイスがありますから。
本当の私たちの本質は、まっさらなハードデスクのようなものです。
元々は私たち意識体は無垢です。この世に出てくるときに、プログラムを作るためのプログラムだけを組み込まれてきました。
私たちは勝手にプログラムを作り出して学習する意識体です。新たに作り出された、プログラムや知識は私たち自体では有りません。地球上で身体を持って生きるためのツールです。
私たちはそれを記憶したりプログラムを作っている主体です。必要なプログラムはこの世に送り出される時に組み込まれたプログラムによって無意識裏に作られます。
これらは喩えです。
現象だけあって象のないものを表すには喩えしか方法がないからです。それは聖書の表現をみてもわかると思います。
私の意図はただ、
自我は自分ではなくプログラム的なものだということをお伝えしたいだけです。。
そのプログラムの中には成功哲学などでメンタルブロックと呼ばれているものも入っています
信念が出来上がる前は私たちは結構考えました。
考えること、思考は人間の本能です。
しかし、プログラム化された信念というものばかりに頼っていると問題が起こってきます。
あなたも今そのまっただ中にいるかもしれませんね。
そこで、新たな思考をする必要があります。
その意味で今あなたは私と新たな思考をしている最中かもしれません。
コミュニケーションが成立しているとなると、それも思考のようなものだからです。
瞑想は思考を停止することと言われています。
そして思考があたかも悪いことのように扱わrていることもあります。
論理的に考えて思考自体が悪いわけではないと思います。
それは人間の本能ですから、良い悪いの問題ではありません。
信念化した誤った思考がよくないのであって、新たな創造的にあ思考は必要なはずです。
私は人に瞑想しなさいとは言いません。
新たに思考して考えたことを伝えようと思います。
そういう意味で、今までの信念的思考を停止てあたらしい角度から再思考することは瞑想と同じことだとも感じています。
私の比喩的なメッセージで何か気づきがあれば嬉しいです。
それではまた。
反射というのは途中何度も考え直さないことだから効率的でとても俊敏な反応ができます。
わかりますよね。
間違って暑いヤカンに手を触れてしまったときなどに熱いと感じる前に無意識のうちに手を引っ込めているあれです。
あれは身体に組み込まれている無条件反射というものですが、
私たちの意識の本体の働きにはその反射機構を作り出すという働きがあります。
後天的に獲得する、いわゆる条件反射というものです。
一度覚えてしまえば考えなくてもできるという便利なやつです。これがあるので人間は高度なことに挑戦できるわけです。いちいち一からやっていたら進歩も進化もすることができません。
自転車や自動車の運転などを考えてください。
運転しながら他のことをすることが可能ですよね。
いつも感心しています。勝手に赤信号に反応して、かってにブレーキを踏んでいる私を観察します。
私たちがプログラム自体でないから観察できるわけです。私たちの本質は観察する意識です。
パソコンにプログラムを組み込んでやると、かってに仕事をしてくれるのと一緒です。
私たちの意識は自動的にプログラムを作ってしまう機能をもったコンピューターのようなものです。
コンピュータのプログラムはロボットと呼ばれることがあります。
私たちの中には勝手に思考するプログラムがあります。つまりプログラム化された思考があります。
プログラムは途中選択の余地がない思考です。
もう結論が決まっている思考です。
信念とも呼ばれています。
思い込みとも言われています。
そんな中の最大のプログラムに自我プログラムがあります。
自我ロボットと言ってもいいでしょう。
自我は本当の自分ではなくプログラムです。
信念を集積したプログラムロボットです。
自我は私たちのエッセンスでは有りません。
本当の私たちではありません。
プログラムですから一種のツールです。
結構人生を楽しめるツールですが、ちょっと間違うとフリーズしてしまいます。
私たちはパソコンに中のハードデスクのようなものです。そしてもともと自動でプログラムを作り出す機能を持っています。
パソコン自体に相当するのは私たちの身体でしょうか。五感などの色々なインターフェイスがありますから。
本当の私たちの本質は、まっさらなハードデスクのようなものです。
元々は私たち意識体は無垢です。この世に出てくるときに、プログラムを作るためのプログラムだけを組み込まれてきました。
私たちは勝手にプログラムを作り出して学習する意識体です。新たに作り出された、プログラムや知識は私たち自体では有りません。地球上で身体を持って生きるためのツールです。
私たちはそれを記憶したりプログラムを作っている主体です。必要なプログラムはこの世に送り出される時に組み込まれたプログラムによって無意識裏に作られます。
これらは喩えです。
現象だけあって象のないものを表すには喩えしか方法がないからです。それは聖書の表現をみてもわかると思います。
私の意図はただ、
自我は自分ではなくプログラム的なものだということをお伝えしたいだけです。。
そのプログラムの中には成功哲学などでメンタルブロックと呼ばれているものも入っています
信念が出来上がる前は私たちは結構考えました。
考えること、思考は人間の本能です。
しかし、プログラム化された信念というものばかりに頼っていると問題が起こってきます。
あなたも今そのまっただ中にいるかもしれませんね。
そこで、新たな思考をする必要があります。
その意味で今あなたは私と新たな思考をしている最中かもしれません。
コミュニケーションが成立しているとなると、それも思考のようなものだからです。
瞑想は思考を停止することと言われています。
そして思考があたかも悪いことのように扱わrていることもあります。
論理的に考えて思考自体が悪いわけではないと思います。
それは人間の本能ですから、良い悪いの問題ではありません。
信念化した誤った思考がよくないのであって、新たな創造的にあ思考は必要なはずです。
私は人に瞑想しなさいとは言いません。
新たに思考して考えたことを伝えようと思います。
そういう意味で、今までの信念的思考を停止てあたらしい角度から再思考することは瞑想と同じことだとも感じています。
私の比喩的なメッセージで何か気づきがあれば嬉しいです。
それではまた。