「いつでも愛はどちらかの方が深く、切ない。」――岡本太郎




『掌』や『フェイク』のように、一曲まるごと歌詞を解釈すべき歌もあれば、ある一節を切り取って多様な解釈を与えてみるほうが味わいがいのある歌もある。
このように区別してみると、『シーソーゲーム』は後者に含まれるように思われる。

というわけで、今回は趣向を変えて歌詞解釈をしてみたいと思う。
対象となるのは、次の一節だ。



♪恋なんていわばエゴとエゴのシーソーゲーム♪



この一節には、多様な解釈が可能であると思われるが、その中でも3つを考えてみたい。


まず、全体として踏まえておくべきこととして、ミスチルの歌には、理想的な愛の歌もあれば、現実そのままのドロドロとしたものを描き出す歌もある、ということがある。

『シーソーゲーム』は、どちらにも属することができる歌だが、恋愛がかなり戯画化されたかたちで、コミカルに描き出されている点に、その面白味がある歌である。

それを踏まえた上で、見ていこう。



第一に、恋愛はあくまで《1対1》のゲームだ、という解釈である。
この解釈は歌詞の流れからしても、最も理解されやすい。

恋愛はシーソーゲームである。
それはエゴとエゴ、すなわち1対1で行う遊びである(エゴはラテン語の"ego"に由来する言葉であり、その本来の意味は、英語の一人称単数人称代名詞"I"である)。

つまり、他人は関係ない。
友人の評価も関係ない。
自分が相手をどう想うか、そして相手が自分をどう想うか、それが恋愛においては大事なことなのだ。

これは、一般的な感覚にもかなった恋愛観だと思う。
このような解釈であれば、恋愛は理想化されているように思われる。
しかし、その場合、相手がよければ良いのだが、一歩間違えればドツボにはまってしまうことがよくある。
実際には、他人の評価も考慮に入れた方がよいことは往々にしてあるのだ。

とはいえ、「エゴ」や「シーソーゲーム」という表現はそれ以上のことを含意しているように思われる。



第二に、恋愛は《エゴイズムとエゴイズム》のぶつかり合いだ、という解釈である。
これは字義通りに読んだ場合にたどり着きやすい解釈だ。

恋愛はそんなに甘く理想的なものではない。
自分の欲求と相手の欲求との間に、ジリジリとした葛藤と妥協が存在する。
時には相手に譲歩したり、時には自分のワガママを押し通してみたり…。
恋愛とは、そういったことの積み重ねの中に、或いはそういったことの許容できる関係の中にあるものなのだ。

これは、少し現実味を帯びた、一般的恋愛観のように思われる。
実際、そういった緊張感を楽しむ人もいれば、そういった葛藤の先の一体感に恋愛の醍醐味を見いだす人もいる。
或いは、そういったことを億劫に感じて恋愛を厭う草食系なるものも存在する。



ところで、特に「シーソーゲーム」という点にスポットを当ててみたらどうだろうか?
それが第三の解釈である。

第三の解釈に従えば、恋愛(交際関係)は互いの想いの強さが《バランス》をとれていなければうまく成立しない。
というのも、シーソーは互いの重さがそれなりに釣り合っていなければ、動かないからだ。

一方が強い想いを持っているとしよう。
その場合、もう一方もまた強い想いを持っていれば、恋愛は成立する。

しかし、もう一方があまり強い想いを持っていなければ、想いの強くない方はシーソーを成立させるために、何かと努力をしなければならず、疲れてしまうことになる(想いの強い方に振り回される、と言うこともできる)。

あるいは、想いの強い方は、思いの弱い方に何とか振り向いてほしいと思って、何かと努力を重ねなければならなくなる。これはまたこれでかなりの労苦となるのだ。

更に言えば、もう一方に全くその気がない場合には、想いの強い方の行為はストーカーにも比しうるものと映りかねない(実際、ストーカーと恋人は紙一重のように思う)。

また逆に、お互いがそれほど強い想いを持っていない場合にも、恋愛(交際関係)は案外にうまく成立したりする。


ともかくも、恋愛には《バランス》が大事だということだ。



以上、『シーソーゲーム』の一節に対して、僕の思うところでした~