人を信じることは美しい。
しかし、人を信じることは難しい。
それは理性の範疇を超えた、一種の賭である。


僕らはそれでも人を信じたいと思う。
とりわけ愛する人の場合には、その想いは格段に強くなる。
だから、僕らは、少しでも相手のことを解りたいと思う。


しかし、そこには絶対に越えられない人間の物質性という隔たりがある。

「解り合えたフリしたって僕らは違った個体で」(掌)。

だから、僕らは愛し合い、互いに抱きしめ合う強さが大きければ大きいほど、この絶対的な隔たりを痛感せざるを得ない。


『掌』は、ある意味では、「解り合うこと」を諦めることによって解り合えない苦しみから逃れることを説いていた。
そして、その代わりに持ち出されたのが、「認め合うこと」であった。
要するに、僕らは解り合おうとすれば苦しいから、互いに認め合えばよい、と言うのだ(『掌』解釈を参照せよ)。


しかし、「認め合うこと」は「解り合うこと」の代わりを本当に務められるのだろうか?
僕らは、本当にそんなに理性的に振る舞うことが出来るのだろうか?
愛する相手がいれば、その人と解り合いたい、一つになりたいと思うのが、人間の自然な感情ではないだろうか?


恐らく、このことは桜井自身、気付いていないわけではないだろう。
前にも述べたように、『掌』は理想的な教えを説く福音である。
それは確かに素晴らしいものかもしれないが、しかし桜井は現実を無視しない。


実際、彼は「解り合うこと」を全く否定したわけではない。
むしろ、『掌』以降の桜井は、そのテーマに対してますます関心を持つようになったと思われる。
つまり、桜井は「解り合うこと」の現実的な可能性を模索しているのだ。



その考えを端的に示すキーワードは、「類比(アナロギア)」である。



まずは、『しるし』の一節を引こう。

「同じ顔をしてると誰かが冷やかした写真。僕らは似てるのかな、それとも似てきたのかな。面倒くさいって思うくらいに真面目に向き合ってきた」

ここで桜井が言いたいことは、明らかに、「似てる」ということではなく、「似てきた」ということである。


このことは、『Forever』の次の一節が確証してくれる。

「なんだか僕ら似通ってんだ。ちょっぴりそんな気がした。本当はお互い頑張ってた。近づきたくて真似た」


つまり、愛し合う二人は、互いに真似ようと努力するのであり、そのことによって互いを類比的に理解し合うことができるのである。
確かに、類比的に理解し合うということは、完全に解り合うことには至らない。
しかし、僕らは互いを真似る努力によって、限りなくそれに近づくことが出来るのだ。


そして、互いに真似あうことは、決して嘘やフェイクなどではなく、紛れもない真実なのだ(『フェイク』解釈を参照せよ)。

「そういえば、君の好きな僕を演じるのは、もう演技じゃないから」(Forever)



恐らく、次の『Sign』の謎(?)の一節は、このような2人の状態を指していると言えるのではないだろうか?

「似てるけど、どこか違う。だけど同じ匂い。身体でも心でもなく愛している」

ここでの「同じ匂い」というのは、まさにこの類比的理解の関係を捉えた秀麗な表現である。



要するに、こういうことなのだ。
確かに僕らは違った個体ではあるけれども、愛ゆえに、互いに似ることができる。
そして、互いに似ることによって、類比的に「解り合うこと」ができる。
これこそが、現実的に可能な「解り合うこと」なのだ。



以上。
「いつでも愛はどちらかの方が深く、切ない。」――岡本太郎




『掌』や『フェイク』のように、一曲まるごと歌詞を解釈すべき歌もあれば、ある一節を切り取って多様な解釈を与えてみるほうが味わいがいのある歌もある。
このように区別してみると、『シーソーゲーム』は後者に含まれるように思われる。

というわけで、今回は趣向を変えて歌詞解釈をしてみたいと思う。
対象となるのは、次の一節だ。



♪恋なんていわばエゴとエゴのシーソーゲーム♪



この一節には、多様な解釈が可能であると思われるが、その中でも3つを考えてみたい。


まず、全体として踏まえておくべきこととして、ミスチルの歌には、理想的な愛の歌もあれば、現実そのままのドロドロとしたものを描き出す歌もある、ということがある。

『シーソーゲーム』は、どちらにも属することができる歌だが、恋愛がかなり戯画化されたかたちで、コミカルに描き出されている点に、その面白味がある歌である。

それを踏まえた上で、見ていこう。



第一に、恋愛はあくまで《1対1》のゲームだ、という解釈である。
この解釈は歌詞の流れからしても、最も理解されやすい。

恋愛はシーソーゲームである。
それはエゴとエゴ、すなわち1対1で行う遊びである(エゴはラテン語の"ego"に由来する言葉であり、その本来の意味は、英語の一人称単数人称代名詞"I"である)。

つまり、他人は関係ない。
友人の評価も関係ない。
自分が相手をどう想うか、そして相手が自分をどう想うか、それが恋愛においては大事なことなのだ。

これは、一般的な感覚にもかなった恋愛観だと思う。
このような解釈であれば、恋愛は理想化されているように思われる。
しかし、その場合、相手がよければ良いのだが、一歩間違えればドツボにはまってしまうことがよくある。
実際には、他人の評価も考慮に入れた方がよいことは往々にしてあるのだ。

とはいえ、「エゴ」や「シーソーゲーム」という表現はそれ以上のことを含意しているように思われる。



第二に、恋愛は《エゴイズムとエゴイズム》のぶつかり合いだ、という解釈である。
これは字義通りに読んだ場合にたどり着きやすい解釈だ。

恋愛はそんなに甘く理想的なものではない。
自分の欲求と相手の欲求との間に、ジリジリとした葛藤と妥協が存在する。
時には相手に譲歩したり、時には自分のワガママを押し通してみたり…。
恋愛とは、そういったことの積み重ねの中に、或いはそういったことの許容できる関係の中にあるものなのだ。

これは、少し現実味を帯びた、一般的恋愛観のように思われる。
実際、そういった緊張感を楽しむ人もいれば、そういった葛藤の先の一体感に恋愛の醍醐味を見いだす人もいる。
或いは、そういったことを億劫に感じて恋愛を厭う草食系なるものも存在する。



ところで、特に「シーソーゲーム」という点にスポットを当ててみたらどうだろうか?
それが第三の解釈である。

第三の解釈に従えば、恋愛(交際関係)は互いの想いの強さが《バランス》をとれていなければうまく成立しない。
というのも、シーソーは互いの重さがそれなりに釣り合っていなければ、動かないからだ。

一方が強い想いを持っているとしよう。
その場合、もう一方もまた強い想いを持っていれば、恋愛は成立する。

しかし、もう一方があまり強い想いを持っていなければ、想いの強くない方はシーソーを成立させるために、何かと努力をしなければならず、疲れてしまうことになる(想いの強い方に振り回される、と言うこともできる)。

あるいは、想いの強い方は、思いの弱い方に何とか振り向いてほしいと思って、何かと努力を重ねなければならなくなる。これはまたこれでかなりの労苦となるのだ。

更に言えば、もう一方に全くその気がない場合には、想いの強い方の行為はストーカーにも比しうるものと映りかねない(実際、ストーカーと恋人は紙一重のように思う)。

また逆に、お互いがそれほど強い想いを持っていない場合にも、恋愛(交際関係)は案外にうまく成立したりする。


ともかくも、恋愛には《バランス》が大事だということだ。



以上、『シーソーゲーム』の一節に対して、僕の思うところでした~