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4月末、その日は講演会が始まるまでに、時間があったので、水俣病資料館に案内された。

案内は、講演会を企画してくださった理学療法士さんや作業療法士さんの若い男女である。


水銀中毒というものはどういうものか、中毒の方々の生活はどのようなものか、等身大のセピア色した写真が年代順に並んでいる。


毎年5月に熊本県水俣で慰霊祭がある。

5月なのは、今から50年前の5月に初めて水俣で奇病と考えられていた病が公害と認定されたからなのだという。

「ある日、背の曲がった魚が水俣湾に浮かびあがり、やがて猫が飛び跳ねたり奇奇怪怪な仕草をするようになり、空からは鳥が降ってきたといいます。」

若き彼らは直接水俣病の被害者ではないが、語り部となって今に当時の惨劇を伝えようとしてくれている。


資料館を出て、小高い丘に登った。

そこから水俣湾が一望できる。

丘の緩やかな坂には、銀色の球がいくつも不規則に置かれていた。

毎年亡くなっていく水俣病犠牲者を言霊にして(写真参照)、水俣湾が見える丘にかざしているのだそうだ。


慰霊祭にはここから花火が打ち上げられて、沢山のロウソクに火が灯る。

若き語り部達の瞳は水俣湾にそそがれ、わたくしは彼らの落ち着いた声に夢中になっていた。

「今はこの港に珊瑚も育って、世界でも有数の漁場になっているんですよ。」

戦後、日本の急速な復興を目指した高度成長という光の裏には、影があった。

ある意味、水俣病の犠牲者は、戦争の犠牲者でもあるのかもしれない。


毎年夏になると、戦争を風化させることのないよう、各地で催し物が開かれ、メディアが取り上げる。

こうして永年に語り続けてもらいたいと思う。


20歳の次男が「硫黄島の手紙って届いたの?」と聞いてきた。

戦争経験をした父や母からは、わたくしはろくに話も聞かず、聞こうとしたときにはすでに二人はこの世から去っていた。

次男には何も答えられない。

語り継いでいかなくてはならないはずの親が、これなのだ。

申し訳ない。