初めて海外を旅した時、ある日、味噌汁が飲みたくなって
「ああ、やっぱり自分は日本人だな」と思った。
その旅から帰ってきて、少しだけ「自分の国」のことを知りたくなった。
比較できる対象ができて、チガイを意識できるようになったからだ。
「日本人」。もっとも僕らに身近で、実はよく分かっていないこと。
生まれた時からその国籍で、パスポートにもそう記されている。
だから、「どこから来たの?」と旅先でされた質問や
「ああ、味噌汁」と、体が欲する時だけは意識してみても
普段は確固たる根拠もないまま、日々を過ごしている。
「“君”の特徴って何?」。もっとも困る質問だ。
オリンピックにワールドカップ。盛り上がるスポーツの国際試合。
僕らは、「国歌」の意味も「国旗」の意味もよく知らないから
『日の丸』を頬に描いた応援席に笑みを向け、ビールを片手に応援する。
『君が代』を共に歌う若者に「期待できる」と、政治家は言い
熱狂的に応援した若者に「危険を感じる」と、批評家は言う。
なぜだかこの国では、「ニホン」のことを考えるのに
「右だ」とか「左だ」とか、いちいちジャンル分けが始まる。
知っている人がたくさんいるチームを応援したい。ただ、それだけのこと。
甲子園で母校をつい応援したくなるのと、いったい何が違うというのか。
「右?」「左?」。どっちも僕にはしっくりこない。
着物に漆器、書道や茶道。確かに最近メディアでは
「古き良き日本文化」の特集が誌面を賑わせている。
着物を見ては「美しい」と思い、武士道精神に「カッコいい」と憧れを抱く。
理由はシンプル。今まで、よく知らなかったからだ。
そんな僕らの素朴な気分に「あいのり」した形で
この国は、未来のビジョンを『美しい国』と掲げた。
改正された『教育基本法』には、「愛国心」を責務とする旨を入れ込んだ。
国を愛する心。その理念自体を否定するのは難しい。
でも、それを大袈裟に掲げられることに、気持ち悪さを感じてしまう。
いったい誰が、その「愛の大きさ」を計るというのだろう。
たった一人の祖先を500年も遡れば、じつは1億人を超えていく。
僕らは、そんな数の「文化の知恵」を知らず知らずに継承している。
まわりにある「色」は、僕らの先人がかつて見たどこかの風景で
今日も話す「ニホン語」は、彼らが見つけた「セカイ」そのもの。
オニギリを頬張り、街では左側を歩き、吹きぬける風を感じている。
髪型や服装、言葉遣いが、たとえ古きものと違っていたとしても
僕らは「悠久の時間」を、この体の中に内包している。
「取り戻す」のでもなく「掲げる」のでもなく
僕らが「持っている」、刻まれた日本のしるし。
たとえば国への愛がなかったとして、愛していたい友はいて
時には笑顔で国旗を振って、スポーツ観戦では気持ちよく応援して
「右」か「左」か問われたなら、軽やかに「上」へとジャンプして。
そういうことでいい、と思う。
ニホンは、決して「遺産」ではない。
時代も文化も僕も、現在進行形だ。
それは少しずつカタチを変えて、また誰かに刻まれていく。
だからこそ、僕らが今を生きていく意味がある。
そういうことがいい。
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最近Generation Timesというタブロイド誌にはまっていて、先月号の冒頭に書かれていた編集長の伊藤さんの言葉。
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今日のBlog担当:青木 直
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