『光の子、昼の子』

(テサロニケ信徒への手紙一 5章1節~11節)

(2024年8月25日 ベテル清水教会 聖日礼拝説教)

 

先日、CGNテレビで、「ビジネスで勝ち抜くための聖書思考」という書物の出版トークイベントの様子が放送されていました。

昨日、グループLINEに、この放送のリンクを貼っています。

 

この書物を出版されたのは、この教会もお世話になっている、キリスト教葬儀社、ライフワークス社の社長、野田さんで、教会に贈呈してくれました。

ぜひ、お読みになることをお勧めします。

 

本の冒頭、野田さんは、こう書いています。

 

父は、私をよく新しい事業の施設や建設地に連れて行き、その事業の成長の姿を見せながら、今のビジネスがあるのは祖父の聖書思考があったからだと語ってくれました。

 

キリスト教専門の葬儀社の企業という小さな一歩から走り続けて20年。今も自分の存在を前向きに捉え、根拠のない自信全開で生きています。その根底には「キリスト教精神から来る聖書思考」があるということを、今さらながら深く実感しています。

 

野田社長は、三代目のクリスチャンです。

おじいちゃんが聖書を読み、イエス様と出会って、人生が一変し、クリスチャン事業家として成功した、と、父親から、よく聞かされ、育ったそうです。

 

野田さんの祖父は、戦後、満州から帰還後、リヤカー一台でペンキ屋さんを始めたそうですが、事業に失敗し、自殺まで考えたそうです。

 

ある日、アメリカの牧師であり、経営者が書いた積極思考のビジネス書を読んで、教会に行けばビジネスのヒントが得られるかと思って、訪ねたそうです。

 

その後、クリスチャンとなり、聖書の教えに従って歩み始めると、ビジネスも人生も好転し、この聖書の教えをもっと人に伝えたい、と牧師に相談したそうです。

 

すると、「高度経済成長の日本、これから子供たちがたくさん増えます。学校を作ったら多くの人に教育を通し、聖書を伝えられるよ、と勧められたそうです。

 

祖父は、「よし学校を作ろう」と、一念発起して作ったキリスト教主義の学校。

それが、今や甲子園の常連校となっている福島の聖光学院だそうです。

 

今年は、残念ながら一回戦で敗れ、校歌を歌うことができませんでしたが、その歌詞の中には、建学の精神、聖書思考がストレートに歌われています。

 

1.希望に燃ゆる 若人が 復活の主 仰ぎ行く

2.希望に燃ゆる 若人が 山上の訓 守りゆく

3.希望に燃ゆる 若人が 世に勝ちし主に 倣いゆく

 

聞いたことのある方もいると思いますが、賛美歌そのものですね。

 

この聖光学院の「聖光」とは、「あなたがたは、世の光である」(マタイ5:14)という、主の言葉に由来しているそうです。

祖父は、「キリストの光を世に証したい」という願いを込め、1962年(昭和37年)に創立されたそうで、私は親近感を覚えました。誕生年が一緒だからです。

 

日本には、新島襄の同志社大学をはじめ、数多くのミッションスクールがありますが、聖書を通し、キリストに出会い、救いに導かれ、光の子となり、世の光となる人は、少ないのが現状です。

 

今後は、祈りの課題にミッションスクールのことも加え、建学の精神からズレることなく、聖書に基づいた教育がなされるように。クリスチャンの教師が増やされるように、共に祈っていきましょう。

 

さて、聖書日課は、列王記が終わり、久しぶりに新約聖書からの説教です。

今日の聖書日課は、4章13節~5章11節までです。

 

小見出しに「主は来られる」とあり、ここには歴史の終末、人生の終末、主の日の到来についての教えが語られています。

朝、御言葉メールで配信した内容を、深堀していきたいと思います。

 

この手紙を書いたのは、使徒パウロです。

パウロは、熱心な信仰者でした。

しかし、彼の信仰には、ズレがあり、的外れな行動をしていました。

信仰がズレ、的が外れると、進む方向が狂い、神様から遠ざかっていきます。

 

パウロは、熱心でまじめなのですが、間違った方向に突進していったのです。

信仰は、スピードよりも、方向が大切です。

どんなに熱心で、速くても、方向を間違えると、目的地にたどり着きません。

 

パウロは、神を信じつつも、御心を悟らず、的外れな方向に向かいました。

そんな彼が、人生の方向転換をしました。

 

彼は、自分から求めたわけでもないのに、突然、主が人生に介入されたのです。

彼は、主の光を浴び、主の声を聞いて、自らの間違いに気づかされたのです。

 

主は世の光、暗闇を打ち破る義の太陽です。

世の光である主の言葉が、世界の歴史、一人一人の人生の歴史を変えるのです。

 

野田社長の祖父は、聖書の言葉によって、人生が180度変わりました。

世の光として生きる者を育てるために、キリスト教主義の学校を作ったように、

パウロも、主の言葉によって、人生が180度変わり、全ての人が救われ、世の光として生きる者となるように、キリストの福音を宣べ伝えたのです。

 

このパウロの回心とその後の働きは、使徒言行録に詳しく記されています。

パウロは、三度の伝道旅行を行っていますが、このテサロニケの教会は、二度目の伝道旅行の時に、マケドニア人の叫びを聞いて、福音を伝えています。

 

17章を見ると、パウロがテサロニケに着いて、ユダヤ人の会堂で、聖書を用いて、彼らと論じ合う場面があります。

 

17:3 「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。

17:4 それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。

 

この時、パウロの言葉を聞いて、信じ、従う人たちもいました。

しかし、多くのユダヤ人はパウロを妬み、暴動を起こし、パウロとシラスは、夜逃げするかのように、テサロニケを離れたのです。

 

パウロは、アテネに着くと、テサロニケの様子が気になりました。

そこで、テモテを派遣し、彼らが迫害の中にあっても、主の愛と信仰によって歩んでいることを知り、主に感謝し、彼らを励ますために、手紙を書いたのです。

 

さて、今朝は、5章1節~11節の御言葉を取り上げています。

5:1 兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。

5:2 盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。

5:3 人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。

 

主は、かつて来られ、今も来られ、やがて来られるお方です。

主の日には、黙示録にあるように、主の再臨と最後の審判が起こります。

 

イエス様は、弟子たちに、再び来られる日について、こう語っていました。

マタイ24章をご覧ください。P48

 

24:42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

24:43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。

24:44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

 

イエス様は、必ず来ると約束し、天に帰られました。

しかし、いつ来るとは言われず、その日は、突然、来ると言われたのです。

 

教会は、2000年経った今も、主の言葉を信じ、今も主を待ち望んでいます。

これは信仰が無ければ、理解できない世界です。

 

信仰があっても、いつ来るのか分からないお方を、ずっと待ち続けるのは、簡単なことではありません。

待ちくたびれて、信仰から離れる人、異端の教えに騙される人もいました。

 

テサロニケの信徒たちは、迫害と苦難が続く中、主を待ち望んでいました。

彼らは、主の日について、主の再臨と主の裁きについて、不安と恐れを持つ人もいました。

主を待ち望みつつも、先に死んだ人、眠りについた人はどうなったのか。

いろんな疑問が広がっていたのです。

 

5:4 しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。

5:5 あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。

 

今日の御言葉です。

光の子、昼の子

今日のテーマです。

 

パウロは、主の日について、終末について、いつ来るのか。自分たちはどうなるのだろうか。先に眠った者たちは、どうなったのだろうか。

 

主の日、終末、死を恐れる人たちに向かって、パウロは語ります。

あなたがたはすべて光の子、昼の子だ、と。

これは、今日、主を信じ、主を待ち望んでいる私たちも聞くべき主の言葉です。

 

「あなたがたは暗闇の中にいるのではない」

「わたしたちは、夜にも暗闇にも属していない」

あなたたちは、光の中に属し、あなたがたは世の光である、と。

 

みなさん。イエス・キリストは世の光であり、その中に私たちはいるのです。

だから、主の日、歴史の終わり、人生の終わりを恐れることはないのです。

主の日は、救いの日であり、主のもとに行く日だからです。

 

パウロは、4章13節、14節でこう述べています。

 4:13 兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。

 4:14 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。

 

私たちには、この希望が与えられているのです。

イエスが死んで復活されたように、私たちも復活します。

私たちは、イエス・キリストを信じ、闇から光へ移されたのです。

私たちは、光の子、昼の子なのです。

 

この世は、昼があり、夜があります。

夜は太陽が沈み、人は眠ります。私たちも眠ります。

 

しかし、霊的な意味では、わたしたちには夜はなく、闇はないのです。

すでに義の太陽が昇り、私たちは光の子、昼の子として生きるのです。

 

5:6 従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

5:7 眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。

5:8 しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。

 

夜勤の人は、昼夜逆転しますが、一般的には、人は昼間起きて、夜眠ります。

酒を飲む人も、夜、酒を飲んで、眠ります。

 

この世でも、真昼間から酒を飲み、酔いつぶれ、眠る人は、怠惰な人です。

パウロがこの手紙を書いたコリントの町では、怠惰な人が大勢いました。

 

パウロは、この世で堕落した人々の姿をみながら、語ったのです。

霊的な意味で、主を信じ、光の子、昼の子となって、今は、昼間なのに、彼らのように霊的に眠り、昼間から酒を飲むような者になるな、と。

 

目を覚まし、身を慎み、光の子らしく、昼の子らしく、自分に与えられた使命を果たし、落ち着いた生活をしなさい、と教えたのです。

 

5:9 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。

5:10 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。

5:11 ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。

 

私たちは、長きにわたり列王記を読んできました。

その結末は、イスラエルに対する神の怒りと裁きでした。

 

しかし、神様は、彼らを怒りに定められたのではありません。

その先があり、主イエス・キリストによる救いが定められていたのです。

 

世の終わり、終末の時には、神の怒りが現わされます。

人は、主の日を恐れ、不安になります。

しかし、それがゴールではありません。

ゴールは、主イエス・キリストによる救いなのです。

 

闇から光へ、死から命へ、裁きから救いへと導き、寝ても覚めても、主と共に生きる者となる。

これがイエス・キリストの十字架によって成し遂げられた救いの御業なのです。

 

今朝、私たちは、光の子、昼の子であることを覚えましょう。

そして、パウロが主の言葉に基づいて語った言葉を持って、互いに励まし合いながら、歩んでいきましょう。

 

最後に、4章15節以下をお読みします。

4:15 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。

4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、

4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。

4:18 ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。

 

主の日、終わりの日は、必ず到来します。

しかし、その日、その時を、私たちは恐れる必要はないのです。

 

なぜなら、私たちは、イエス・キリストを通し、すでに闇から光へと移され、光の子、昼の子として、光の中を生きているからです。

この世で天国で、死んでも天国なのです。

寝ても覚めても、主が共におられる。

 

そのことに感謝し、世の光として、残された人生、神の栄光を現し、神様の素晴らしさを証しながら、自分に与えられた務めを果たし、落ち着いた生活を歩んでいきましょう。お祈りいたします。