『主の神殿に行った』

(列王記下 19章1節~7節)

(2024年8月4日 ベテル清水教会 聖日礼拝説教)

 

オリンピックは、連日、夜中にドラマチックな戦いが続き、寝不足気味です。

オリンピック競技は、筋書きがないドラマで、ハラハラドキドキの連続です。

 

スケートボードでは、最後に大技が決まり、大逆転劇の金メダルでした。

体操男子団体でも、最終種目に相手がミスして、奇跡的な金メダルでした。

 

柔道団体では、あと一勝まで迫りながらも、惜しくも銀メダルに終わりました。

メダルを逃した選手は号泣し、微妙なジャッジに泣かされた選手もいました。

 

人生も、筋書きのないドラマです。

長い人生、何が起こるか分からず、明日のことは誰も知りません。

 

一人一人の人生には、不運なこと、理不尽や不条理な出来事もあれば、幸運な出来事もあり、運命のいたずらに悩み、運勢を占い、宗教に走る人もいます。

 

カトリックのシスターであった渡辺和子さんは、ある書物の中で、「運命は冷たいけれど摂理は温かい」という言葉を残し、キリスト教の本質を伝えています。

 

「運命」とは、人間の意志を超越し、人に幸、不幸を与える力のことです。

その力により、巡ってくる幸、不幸の巡り合わせを「運命」と呼ぶそうです。

「運命」は、偶然の力であり、偶然の世界は冷たい、とも言えます。

 

一方、「摂理」は、キリスト教用語で、神の配慮(取り計らい)を意味します。

聖書によれば、この世界も、人間も、神に造られ、神の支配の中にあります。

「摂理」は、神の支配の中にあり、神は愛であり、神の配慮、取り計らいには、温もりがあるのです。

 

さて、聖書日課は列王記を読んでいます。

先週は、17章。北イスラエルの最後の王ホシェアの時代、イスラエルがアッシリアに征服され、滅ぼされ、捕囚の民となった個所でした。

 

イスラエルは、運悪く、理由もなく、偶然、滅びたのではありません。

この出来事にも神の摂理、配慮があり、神の計らいがあるのです。

 

神様の摂理は、彼らが主に立ち帰り、神を畏れ敬う者となることです。

そのために、神様はアッシリアやバビロンをも用いて、彼らに裁きを下されたのです。

 

週報の裏面に、先週の水曜日の聖書日課を印刷しています。

17:38 わたしがあなたたちと結んだ契約を忘れてはならない。他の神々を畏れ敬ってはならない。

17:39 あなたたちの神、主にのみ畏れを抱け。そうすれば、主はすべての敵の手からあなたたちを救い出してくださる。」

 

イスラエルは、主が彼らと結んだ契約を忘れ、主を畏れながらも、他の神々をも畏れ敬い、偶像に仕え、敵の手(アッシリア)の手に渡され、主の裁きを受け、滅ぼされました。

ユダも同じ道を辿り、敵の手(バビロン)の手に渡され、滅びていきます。

 

しかし、主は、彼らと結んだ契約を忘れず、彼らを愛し、預言者を遣わし、「あなたたちの神、主にのみ畏れを抱け。そうすれば、主はすべての敵の手からあなたたちを救い出してくださる」と語られるお方です。

 

この主の言葉が真実であることをリアルに体験した王がいました。

それが18章に登場するヒゼキヤ王であり、救い主を待ち望み、主にのみ畏れを抱いた人々です。

 

主にのみ畏れを抱け。

そうすれば、主はすべての敵の手からあなたたちを救い出してくださる。

 

今朝は、この言葉が真実であることを体験したヒゼキヤ王の話になります。

ヒゼキヤ王については、18章5節以下に、こう記されています。

 

18:5 彼はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった。

18:6 彼は主を固く信頼し、主に背いて離れ去ることなく、主がモーセに授けられた戒めを守った。

18:7 主は彼と共におられ、彼が何を企てても成功した。彼はアッシリアの王に刃向かい、彼に服従しなかった。

 

信仰とは、主を固く信頼し、主の言葉に従順することです。

信頼と従順はセットです。

信頼なき従順も、従順なき信頼も、それは偽りの信仰、ズレた信仰です。

 

イスラエルの民は、神を信じていながらも、主に依り頼もうとしない。

彼らは、神を信じ、礼拝を捧げながらも、主の言葉に従おうとしない。

これがヤロブアムの罪であり、偶像礼拝を生み出す的外れな信仰なのです。

 

聖書が繰り返し、私たちに教えるのは、アダムも、イスラエルの民も、弟子たちも、私たちも、信仰が的を外し、神の祝福を失うことがある、と教えるのです。

それは、主を信頼し、主が共にいて、祝福されたヒゼキヤも同じでした。

 

ヒゼキヤが王になって14年目、アッシリアが南ユダに攻め、占拠します。

彼は、最初は良かったのです。

主を固く信頼し、イスラエルに霊的改革を行い、偶像を撤去しました。

 

4年目に、北イスラエルが滅び、アッシリアの脅威を感じると、エジプトの力を頼りはじめ、ここから彼の信仰にズレが生じていくのです。

 

主は、神の民を、正しい道へと引き戻されるお方です。

信仰がズレ、祝福を失った民を、見捨てることはなさいません。

 

預言者を遣わし、敵を用いて、彼らが主に立ち帰るように働きかけるのです。

これが神の摂理です。

神様はアッシリアの王の悪を用いて、ヒゼキヤの信仰のズレを直されたのです。

 

信仰のズレは、危機の時、問題が生じた時に、表面化します。

ヒゼキヤは、自分の間違い、罪に気づかずにいたのです。

 

18:13 ヒゼキヤ王の治世第十四年に、アッシリアの王センナケリブが攻め上り、ユダの砦の町をことごとく占領した。

18:14 ユダの王ヒゼキヤは、ラキシュにいるアッシリアの王に人を遣わし、「わたしは過ちを犯しました。どうかわたしのところから引き揚げてください。わたしは何を課せられても、御意向に沿う覚悟をしています」と言わせた。アッシリアの王はユダの王ヒゼキヤに銀三百キカルと金三十キカルを課した。

18:15 ヒゼキヤは主の神殿と王宮の宝物庫にあったすべての銀を贈った。

 

ヒゼキヤは、ピンチに陥り、頼りにしたエジプトは、助けてくれません。

そこで、アッシリアに服従し、貢ぎ物を渡し、金銀の力に頼って、この難局を乗り越えようとしたのです。

 

これは、先に滅びた北イスラエルの王と同じ政策です。

神殿の宝、金銀を渡し、服従すれば、アッシリアは引き揚げてくれる。

しかし、敵は、そんなに甘くはありません。

 

アッシリアの王は、エルサレムを包囲し、司令官にこう言わせます。

18:19 そこでラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王はこう言われる。なぜこんな頼りないものに頼っているのか。

18:20 ただ舌先だけの言葉が戦略であり戦力であると言うのか。今お前は誰を頼みにしてわたしに刃向かうのか。

18:21 今お前はエジプトというあの折れかけの葦の杖を頼みにしているが、それはだれでも寄りかかる者の手を刺し貫くだけだ。エジプトの王ファラオは自分を頼みとするすべての者にとってそのようになる。

 

誰を頼みにしてわたしに刃向かうのか。

 

これは、アッシリアの王の言葉です。

しかし、この言葉をアッシリア王に語らせたのは、神様です。

 

「お前は、誰に頼っているのか」

これは、信仰にズレが生じた者に対する、主から語りかけです。

これが神の摂理の言葉です。

 

ラブ・シャケは、「ヒゼキヤにだまされるな。彼はお前たちをわたしの手から救い出すことはできない」と、神を罵ったのです。

 

ユダの民は、この挑発的な言葉を聞いて、押し黙って、一言も答えません。

それが昨日の聖書日課の個所でした。

彼らが沈黙した理由は「王に戒められていたので」とあります。

 

歴代誌下を見ると、この時のヒゼキヤ王の戒めが記されています。

32:6 王は指揮官を民の上に立て、彼らを城門の前にある広場に集めて激励して言った。

 32:7 「強く雄々しくあれ。アッシリアの王とその全軍団を見ても、恐れてはならない。おじけてはならない。我々と共においでになる方は、敵と共にいる者より力強い。

 32:8 敵には人の力しかないが、我々には我々の神、主がいて助けとなり、我々のために戦ってくださる。」民はユダの王ヒゼキヤの言葉に力づけられた。

 

ヒゼキヤは、絶体絶命のピンチに陥った時に、信仰のズレに気づいたのです。

それは、ユダの民も同じです。

彼らは、ヒゼキヤの言葉に力づけられ、黙って忍耐します。

 

今朝は、その続きの個所です。

 19:1 ヒゼキヤ王はこれを聞くと衣を裂き、粗布を身にまとって主の神殿に行った。

 

今日の御言葉です。

主の神殿に行った

今日のテーマです。

 

危機の時、ヒゼキヤは、衣を裂き、粗布をまとって、主の神殿に向かいます。

衣を裂くのは、嘆きの表現です。

粗布を身にまとったのは、悔い改めの表現です。

 

ヒゼキヤは、どん底に落とされ、そこで主に立ち帰り、主に依り頼んだのです。

彼は、主の神殿に行き、そこで祈ります。

神のドラマは、祈りから始まります。

 

ヒゼキヤは、神に祈り、預言者イザヤのところへ人を遣わします。

つまり、主の言葉を求めたのです。

 

 19:2 また彼は宮廷長エルヤキム、書記官シェブナ、および祭司の長老たちに粗布をまとわせ、預言者、アモツの子イザヤのもとに遣わした。

 19:3 彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言われる。『今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない。

 19:4 生ける神をののしるために、その主君、アッシリアの王によって遣わされて来たラブ・シャケのすべての言葉を、あなたの神、主は恐らく聞かれたことであろう。あなたの神、主はお聞きになったその言葉をとがめられるであろうが、ここに残っている者のために祈ってほしい。』」

 

ヒゼキヤの言葉から、彼が生ける神を信じていることが分かります。

生ける神を罵ったアッシリアは、必ず主に咎められる。

しかし、彼自身には、アッシリアを倒す力はありません。

エジプトと同盟を組んで、戦おうとしましたが、助けてもらえません。

 

彼は、自分の弱さを知り、「胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない」と、神の前にギブアップします。

神にギブアップ。人生にはネバーギブアップ。

これがヒゼキヤの信仰であり、私たちの信仰です。

 

 19:5 ヒゼキヤ王の家臣たちがイザヤのもとに来ると、

 19:6 イザヤは言った。「あなたたちの主君にこう言いなさい。『主なる神はこう言われる。あなたは、アッシリアの王の従者たちがわたしを冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。

 19:7 見よ、わたしは彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される。』」

 

イザヤは、「恐れるな」と語り、主が霊を送り、彼らを倒すと預言します。

そして、その言葉どおり、ヒゼキヤは、主の救いの御業を見ることになります。

 

かつてイスラエルの民も、出エジプトの時に、ファラオの大軍に追いつかれ、包囲され、絶体絶命の危機に陥りました。

 

その時、モーセは、彼らに言いました。

 14:13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。

 14:14 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

 

この後、目の前の紅海が分かれ、彼らは海の中を歩いて渡り、救い出される、という救いの御業が起こり、最後にこうコメントされています。

 

 14:31 イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。

 

私たちも同じです。

私たちが信じる神様は、生ける神、今も生きて働いている神、救いの神です。

この方を畏れ敬い、毎週、礼拝を捧げ、主の言葉を聞いて、祈るのです。

 

主は、いつも私たちに、聖書を通し「恐れるな」と語り続けます。

「わたしに依り頼み、静かにしていなさい」と言われるのです。

 

この世の中で、どんなに酷い言葉、不安な言葉、辛い言葉、神を罵る言葉を聞いても、「恐れるな」「静かにしていなさい」と、今日も語られるのです。

 

この声を聞く場所、それが主の神殿であり、神の家、教会です。

静まって、主を待ち望む。

これが私たちの信仰なのです。

 

歴代誌には、神殿で祈ったヒゼキヤの結末が、こう記されています。

 

 32:20 ヒゼキヤ王と預言者、アモツの子イザヤはこの事のために祈り、天に助けを求めて叫んだ。

 32:21 主は御使いを遣わして、アッシリアの王の陣営にいる勇士、指揮官、将軍を全滅させられた。王は面目を失って帰国し、その神の神殿に来たところ、自分の血を引く王子らによって剣にかけられ倒された。

 32:22 こうして主は、ヒゼキヤとエルサレムの住民を、アッシリアの王センナケリブおよびあらゆる敵の手から救い、周囲の者たちから彼らを守って安らぎを与えられた。

 

みなさん。主は生ける神であり、我らの救い主です。

モーセの時代に働いた神、ヒゼキヤの時代に働いた神は、今もおられます。

主の神殿、神の家で祈った祈りを、聞いて、働いてくださるお方です。

 

もう一度、最初に読んだ17章38節、39節を一緒に告白しましょう。

17:38 わたしがあなたたちと結んだ契約を忘れてはならない。他の神々を畏れ敬ってはならない。

17:39 あなたたちの神、主にのみ畏れを抱け。そうすれば、主はすべての敵の手からあなたたちを救い出してくださる。」

 

アーメン。最後に、週報に書いた、黙想の最後の部分を読んで終わります。

 

救い主は到来し、神は救い主を信じる者たちと新たな契約を結ばれたのです。

主の言葉は真実であり、主にのみ畏れ敬う人は、救いの御業を体験します。

主と結んだ契約を忘れず、主を愛し、主にのみ畏れを抱き、礼拝を捧げる人は幸いです。

お祈りします。