『こうなったのは』
(列王記下 17章1節~12節)
(2024年7月28日 ベテル清水教会 聖日礼拝説教)
オリンピックが開幕し、早速、柔道では、金と銅メダルを獲得し、審判のジャッジに泣き笑いがありましたが、ルールなので仕方がありません。
オリンピックやワールドカップなどの国際大会で、日本人のマナーの良さが話題になり、「日本人のマナーの素晴らしさは世界一」と言われます。
サッカーの試合後、ごみを集める日本人サポーターの姿は、良い例です。
マナーは、暗黙の了解で行う行為であり、目に見えないルールです。
ゴミを拾わないと、罰を受けるから、拾うのではありません。
ごみを拾うことは、良いことだから、実践しているのだと思います。
最近、暗黙の了解で守られてきたマナーを無視し、法的には問題ないと、マナーを守らず、悪を行う人が増えているように感じます。
政治の世界でも、法の抜け穴を利用した裏金問題や、都知事選挙のポスター問題、選挙妨害などが問題となり、新たな法律を作る動きもあります。
どの分野でも、ルールは必要であり、マナーも大切です。
ルールがなくても、守られていたことを、ルールとして明文化し、罰則を強化することで、悪を行う人の問題は解決するのでしょうか。
ルールよりも大切なものが失われ、倫理観が欠如し、モラルハザードを起こしているように感じています。
ルールよりも大切なものとは何でしょうか。
聖書は、ルールよりも大切なものを教えてくれる書物です。
ルールよりも大切なもの。
それは、神を畏れ敬う心です。
神様は、この心、良心というものを人間の心に標準装備されています。
私たちが罪を犯すと、罪責感に苦しみ、良心に呵責を覚えるのは、神を畏れる心から来ているのです。
先週、物語には、プロローグとエピローグがあるという話をしました。
創世記の天地創造、エデンの園の物語は、神の物語のプロローグです。
神は、天地万物を造り、人をエデンの園に住まわせて、言いました。
創世記2章。
2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。
これは、神が最初の人、アダムに与えた最初のルール、戒めです。
これは暗黙のルールであり、神と共に生きる世界での霊的マナーです。
アダムとエバは、蛇に唆され、この暗黙のルール、戒めを破り、失楽園し、それ以来、人間は罪の支配の中に生きる者となりました。
ここから、神のドラマ、聖書の物語が始まるのです。
12章のアブラハムの選びから、救済史、神の救いの物語が始まり、旧約聖書は神の物語のシーズンであり、新約聖書はシーズン2と言えます。
さて、聖書日課は、列王記を読んでいます。
アブラハムの子孫、イスラエルの民は、神に選ばれ、エジプトの地から救い出され、約束の地へと導かれます。
しかし、彼らは、主に背き、アダムとエバが失楽園したのと同じように、約束の地を失い、再びエジプト時代のように捕囚の民となるのです。
これが列王記の内容です。
今朝は、17章です。
19代続いた北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされる場面です。
歴史的には、紀元前722年の出来事です。
もう一度、17章1節、2節をお読みします。
17:1 ユダの王アハズの治世第十二年に、エラの子ホシェアがサマリアでイスラエルの王となり、九年間王位にあった。
17:2 彼は主の目に悪とされることを行ったが、彼以前のイスラエルの王たちほどではなかった。
イスラエルの王の一覧をご覧ください(プロジェクター参照)
先週は、ユダの8代目、9代目の王、ヨアシュとアマツヤの話でした。
アマツヤの後、ウジヤと呼ばれるアザルヤ、さらにヨタムと続きます。
このウジヤ王の時代に、預言者イザヤが南ユダで活動を始めます。
イザヤは、エルサレムがアッシリアに包囲された時に、アハズ王に「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」(7:4)と語ります。
しかし、アハズはアッシリアの軍事力に頼り、主に頼らず、偶像の神々を拝み、主に背きました。
それが、昨日の聖書日課の内容でした。
この後、18章には、預言者イザヤの言葉に従い、悔い改め、主を信頼し、主の目に適うことを行った王が登場します。
それがアハズの子ヒゼキヤであり、来週は、ヒゼキヤの話です。
さて、今朝は、北イスラエルの最後の王、ホシェアの話です。
彼は、以前の王よりはマシな王ですが、歩む道は同じでした。
彼も、ヤロブアムの道を歩み、王としての評価は×です。
信仰は、スピードよりも、ベクトル、方向が大切です。
どんなに熱心でも、その方向が間違っていれば、御心から離れいきます。
17:3 アッシリアの王シャルマナサルが攻め上って来たとき、ホシェアは彼に服従して、貢ぎ物を納めた。
この時代、イスラエルの周辺諸国は、覇権争いをしていました。
紀元前8世紀、アッシリアが台頭し、領土を拡張し、戦争が絶えません。
この時代、北イスラエルで活躍したのが、ホセアであり、アモスです。
ホセア書、アモス書を見ると、主の裁きが迫っていることが分かります。
15章を見ると、アッシリアは、イスラエルを征服し、ヨルダン川東の住民(ルベン族、ガド族、マナセの半部族)を、アッシリアに連れ去ります。
これが第一次アッシリア捕囚です。
今日の個所では、アッシリアに征服され、貢ぎ物を納め、服従するも、ホシェア王は、密かに謀反を企てたのです。
17:4 しかし、アッシリアの王は、ホシェアが謀反を企てて、エジプトの王ソに使節を派遣し、アッシリアの王に年ごとの貢ぎ物を納めなくなったのを知るに至り、彼を捕らえて牢につないだ。
ホシェアの企ては、すぐにバレ、捕らえられ、サマリアは陥落します。
17:5 アッシリアの王はこの国のすべての地に攻め上って来た。彼はサマリアに攻め上って来て、三年間これを包囲し、
17:6 ホシェアの治世第九年にサマリアを占領した。彼はイスラエル人を捕らえてアッシリアに連れて行き、ヘラ、ハボル、ゴザン川、メディアの町々に住ませた。
残りの地域のイスラエル人は捕えられ、連れ去られます。
これが第二次アッシリア捕囚です。
領土を奪い、民を連れ去り、奴隷として働かせる。
これは帝国主義国家の政策でした。
彼らは、支配した地域に、自分たちの国の住民を強制移住させ、領土を拡張していったのです。
帝国主義国家は、同じ方法で滅びていきます。
アッシリアも、やがてメディアとバビロンの連合軍に敗れ、新バビロニア帝国は、やがて南ユダを滅ぼし、バビロン捕囚が起こるのです。
17:7 こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から導き上り、エジプトの王ファラオの支配から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、他の神々を畏れ敬い、
17:8 主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の風習と、イスラエルの王たちが作った風習に従って歩んだからである。
今日の御言葉です。
こうなったのは
今日のテーマです。
イスラエルの民がこうなった、裁かれたのには、理由があります。
理由なく、約束の地を失い、主に裁かれ、滅びたのではありません。
因果応報。彼らには、滅びに至った原因、理由があったのです。
17章の終わりまで、こうなった理由が長々と語られていくのです。
17:9 イスラエルの人々は、自分たちの神、主に対して正しくないことをひそかに行い、見張りの塔から砦の町に至るまで、すべての町に聖なる高台を建て、
17:10 どの小高い丘にも、どの茂った木の下にも、石柱やアシェラ像を立て、
17:11 主が彼らの前から移された諸国の民と同じように、すべての聖なる高台で香をたき、悪を行って主の怒りを招いた。
17:12 主が、「このようなことをしてはならない」と言っておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである。
「このようなことをしてはならない」
神様は、モーセに現れ、主の戒めを律法として、成文化されました。
イスラエルの民は、律法、主の言葉、主の教えを口ずさみ、心に刻み、暗黙の了解のルールの如く、子供に教え、身に付けさせたのです。
先週、QTセミナーを行いました。
ヤコブは、御言葉を行う人は、幸せになると教えています。
QTは、御言葉を行うことを目的としています。
しかし、それは文字通りに行うことを目的にしているのではありません。
文字通りに行うと、律法主義に陥るからです。
QTは、毎日、御言葉を黙想し、口ずさむことを通し、神の思いを知ること、御心を悟ること、神の願いを知ることを目的としています。
毎日、神の言葉に触れ、御心を求め、その思いが暗黙のルールのように、体にしみこんで行動するようになること。
つまり、御言葉がモラルとなって、身に着き、行動するようになること。
これが神様の願いです。
ただ、聖書を文字通りに守ることではありません。
律法を文字通りに守ることが優先されると、今度は、守らない人を裁いたり、守れない自分を裁いたりするようになります。
マルタとマリアの話にあるように、
マルタは、イエス様が家におられるのに、マリアの姿に腹を立てました。
マルタは、なくてならぬもの、大切なもの、主の御心を見失ったのです。
律法学者やファリサイ派の人々も同じです。
彼らは、律法を文字通りに守ることに熱心でした。
その結果、御心を悟らず、罪人を裁き、神が遣わした救い主までも、殺害するという大きな罪を犯してしまうのです。
ルールよりも、大切なものがあります。
それは、神の心です。
「このようなことをしてはならない」
かつて、神様はモーセを通し、彼らに語っていたのです。
彼らは、いつの間にか、大切なもの、神の御心を失い、神を畏れ敬う心を失い、モラルハザードを起こし、世の中の風習に従ったのです。
レビ記18章。これは現代の私たちに対する暗黙の戒めです。
18:3 あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない。
18:4 わたしの法を行い、わたしの掟を守り、それに従って歩みなさい。わたしはあなたたちの神、主である。
18:5 わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。
御言葉メールにも書きましたが、作家のマーク・トウェインは、「歴史は繰り返さないが韻を踏む」と語っています。
人類は、長い歴史の中で、同じ轍を踏むように、韻を踏むように、同じ過ちを繰り返し、似たような出来事が歴史の中で繰り返されて来ました。
罪を犯し、裁きを受け、何もかも失ってしまう。
神様は、何もかもご存じで、先に語り、後でも語っているのです。
私たちも「こうなったのは」と、後になって、悔やむことがあります。
先に警告されていたのに、失敗してしまうこともあります。
北イスラエルの民は、アッシリアへと連れ去られました。
アッシリア捕囚は、あまり聞きなれない言葉です。
私たちは、バビロン捕囚の民が、悔い改め、主に立ち帰り、もう一度、エルサレムに帰って来て、神殿を建て、礼拝を捧げた姿は、聖書を読み、知っています。
しかし、アッシリアへと捕らわれた民が、その後、どうなったのか分からず、失われた十部族と呼ばれています。
彼らも、神に選ばれた民です。
主は、彼らを見捨てられたのでしょうか。
この後、アッシリアの王は、北イスラエルを支配し、アッシリアの住民を移住させ、イスラエル人と結婚させ、この地の人々は、サマリヤ人と呼ばれるようになります。
イエス様の時代には、南ユダから帰還したユダヤ人たちは、サマリアの地を避けて通るほど、彼らを忌み嫌いました。
しかし、その姿勢は、神様の御心にかなわないことを、イエス様は、態度で示されました。
イエス様は、サマリアの町に入り、サマリアの女と出会い、彼女と会話した話は有名ですね。ヨハネ4章。
4:20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
この女性も、今日の個所で滅びた北イスラエルの子孫なのです。
イエス様は、彼女に、「わたしを信じなさい」と語り、彼女は、イエス様が、自分たちの先祖が待ち望んだ救い主であることを知ります。
4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
この後、彼女は、イエスの言葉を聞いて、急いで町に行って、イエス様のことを証します。
4:39 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。
4:40 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。
4:41 そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
アーメン。
列王記の結末は、北も南も、イスラエルの滅びで終わります。
しかし、今日、覚えたいのは、神のドラマには続きがあることです。
シーズン2があることです。救いの御手は、伸ばされるということです。
アッシリア捕囚によって、イスラエルの10部族は、約束の地を失いましたが、主は彼らを忘れず、サマリアの町で起こった出来事が、至るところで起こることを願っておられるのです。
復活したイエス様は、弟子たちにこう語っています。
1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で
神様の御心は、神に選ばれ、主に背き、約束の地を失った民にも、福音が伝えられ、キリストを信じ、霊と真理を持って、神を礼拝するようになることなのです。
そのために、神様はキリストを遣わし、聖霊を遣わし、弟子たちを遣わし、私たちも、遣わされるのです。
御言葉によって、神のモラルが回復するように。
御心にかなう者となるために、
日々、御言葉を黙想し、神の国のマナーを身に着けて、いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝し、歩んでいきましょう。
お祈りいたします。