『神の人の言葉どおりに』

(列王記下 8章1節~6節)

(2024年7月7日 ベテル清水教会 聖日礼拝説教)

 

今日は7月7日。七夕の日です。

日本では、昔から短冊に願い事を書き、笹竹に飾る習慣があります。

これは、織姫と彦星の七夕伝説が起源だとも言われています。

 

この中国の寓話が奈良時代に日本に伝わり、織姫様がはた織り上手だったことから、手芸や裁縫が上達するようにと、星に願うようになりました。

 

江戸時代には、幕府を通じ、この習慣が全国の寺子屋などで、短冊に願い事を書かせ、読み書きの上達を願うようになったそうです。

今では、子供たちに将来の夢や願いを書かせる習慣となっています。

 

人は誰でも、夢や願いを持ち、その願いが適うように祈る心があります。

ディズニーの名曲に「星に願いを」というピノキオの主題歌があります。

 

輝く星に 心の夢を 祈ればいつか叶うでしょう

きらきら星は 不思議な力 あなたの夢を満たすでしょう

人は誰もひとり 哀しい夜を過ごしてる

星に祈れば 淋しい日々を 光照らしてくれるでしょう

 

ここで歌われる「きらきら星」は、私たちクリスチャンには、クリスマスツリーの上に飾られる、「ベツレヘムの星」を思い起こさせます。

 

2000年前、人々は、救い主が現れるのを待ち望んでいました。

そこへ、救い主の誕生を告げ知らせる星が現れ、その星に導かれて東方の博士たちが救い主と出会い、神を崇め、讃美しながら帰って行きます。

ですから、この曲は、クリスマスソングとしても用いられています。

 

神仏に手を合わせ、祈り、願う姿、太陽や星に願う人の姿は、いつの時代、どこの国でも、未開の地、文明が発達した国でも、よく見られます。

神に祈り、願うことは、神に造られた人間の本能的な行動です。

 

聖書は、私たちに教えます。

何を祈り、何を願うかよりも、誰に祈り、願うかが重要だ、と。

聖書は、私たちに教えます。

誰を求め、誰にひれ伏すのかが重要だと。

祈る行為、礼拝行為よりも、祈りの対象、礼拝の対象が重要なのです。

 

有名な詩編121編は、このことを私たちに教え、示しています。

 121:1 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。

 121:2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。

 

今朝も、ご一緒に、目を上げ、造り主であり、救い主であり、助け主なる神に礼拝を捧げ、このお方に祈り、このお方の言葉に耳を傾けましょう。

 

さて、聖書日課は、列王記下のエリシャ物語が続いています。

エリシャの周りには、不思議な神の奇跡、御業が次々と起こりました。

先週はナアマンの身に起こった神の奇跡、御業から学びました。

 

今朝は、昨日の聖書日課の御言葉、神の奇跡を深堀したいと思います。

もう一度、8章1節をお読みます。

 

 8:1 エリシャは、かつてその子供を生き返らせてやったことのある婦人に言った。「あなたは家族と共に立ち去り、住める所に移り住みなさい。主が飢饉を呼び起こし、それはこの地にも及んで七年も続くからだ。」

 

小見出しに「シュネムの婦人への返済」とあります。

彼女も、神の人エリシャを通し、神の奇跡を体験した一人です。

 

4章8節以下に、彼女の身に起こった奇跡が記されています。

彼女は、エリシャと出会い、神の人とは知らずにもてなし、ここから天が開かれる体験、神の不思議なドラマを体験していきます。

 

彼女は、エリシャから「あなたは男の子を産む」と告げられたのです。

男の子を身ごもる。

これは、彼女の夢であり、願いでした。

 

しかし、すでに夫は年老いており、もはや、あり得ない状況でした。

彼女は、エリシャの言葉を聞いても、信じることができなかったのです。

 

神の祝福は、信じる者に与えられる神の恵みです。

神の恵みは、信じないものにも届けられる神の恵みです。

 

神様は、年老いたアブラハム夫妻に男の子を与えると約束しました。

これは、普通、あり得ないことであり、サラは、笑ったのです。

 

バプテスマのヨハネが誕生した時もそうです。

神様は、ザカリアの願いを聞き、不妊の女で、年老いた妻エリサベトが男の子を産む、と語りました。

しかし、ザカリアは、信じることができませんでした。

 

イエス・キリストが誕生した時もそうです。

おとめマリアが身ごもる。

常識的には、あり得ない出来事です。

マリアは、どうしてそんなことがあり得ましょうか、と言いました。

 

あり得ないことがあり得る世界。

これが神の恵みであり、神の奇跡です。

 

シュネムの婦人の身に起こった出来事も同じです。

彼女も、神の恵みを受け、奇跡的に男の子が与えられたのです。

 

彼女は、神の恵みを体験し、神を信じる者になりました。

しかし、ある日、突然、我が子を失うという悲しみに襲われます。

 

これは、神の恵みを受け、神を信じる者に訪れる一つの試練です。

この試練は、誘惑とセットです。

 

サタンは試練を誘惑として、神から引き離そうとします。

神は誘惑を試練として、用いて、より神に近づけようとされるのです。

 

彼女は、試練と誘惑が襲った時、すぐにエリシャを訪ねます。

彼女は、神の人エリシャの足にすがりついて離れませんでした。

 

私たちも、神の恵みによって救われた後、信仰が試され、誘惑される時があります。

思いがけない出来事に、悲しみ、苦しむ夜を迎えます。

 

その時、私たちはどこに向かうべきなのか。誰にひれ伏すべきなのか。

だれにすがり、誰の言葉に耳を傾けるべきなのか。

神様は、この婦人の姿を通し、私たちに教えているのです。

 

彼女は、神の言葉が語られる場所、神の人エリシャのもとに行きます。

すると、エリシャは、彼女の家に行き、戸を閉じ、神に祈ります。

 

エリシャが男の子の上に伏し、口と口、目と目、手と手を重ねると、体温が回復し、その子がくしゃみをし、なんと子供が息を吹き返したのです。

 

死人が生き返る。

あり得ないことです。世の人からすれば、アブノーマルな世界です。

そんなことはあり得ない。理性では理解できない世界です。

彼女は、神を求め、再び、神の恵み、奇跡を体験したのです。

 

みなさん。聖書が教える「救い」は神の恵みによって与えられます。

私たちが救われたのは、神の恵みであり、神の奇跡なのです。

 

天が開かれ、救い主が世に現れ、私たちのために十字架で死なれました。

誰でも十字架を見上げ、この方こそ、私の救い主と信じ、ひれ伏すならば、罪が赦され、救われる。

これが福音(ゴスペル)、私たちに届けられた良い知らせなのです。

 

誰でも、この福音を聞き、イエス・キリストを信じ、神を崇めるならば、神の恵みによって救われるのです。

 

さて、彼女は、エリシャと出会い、神の恵みを受け、奇跡を体験します。

子供が与えられたことも奇跡ですが、生き返ったことも奇跡です。

さらに、今日の箇所で、三度目の奇跡、神の恵みを体験しているのです。

 

この時、彼女が住むイスラエルは、暗黒時代に突入していました。

6章、7章を見ると、大飢饉が襲い、アラムとの戦争もあり、経済が破綻し、我が子を煮て食べるほど、飢餓に苦しむ悲惨な状態でした。

 

この暗黒時代、悲惨な状況が起こる前、エリシャは彼女に言ったのです。

「あなたは家族と共に立ち去り、住める所に移り住みなさい。

主が飢饉を呼び起こし、それはこの地にも及んで七年も続くからだ。」

 

みなさん。神の言葉、福音は、先に届けられた良い知らせです。

苦難や試練が来る前に、良い知らせが先に届けられます。

終わりの日、主の裁きが来る前に、先に福音が届けられています。

 

大切なことは、神の言葉、キリストの福音を聞いならば、直ぐに信じることであり、すぐに従うことです。

これが神の恵みを受け、神の祝福に与る秘訣です。

 

彼女は、先に語られた主の言葉に、直ぐに従い、難を逃れます。

 8:2 婦人は直ちに神の人の言葉どおりに行動し、家族と共に立ち去り、ペリシテ人の地に七年間住んだ。

 

今日の御言葉です。

神の人の言葉どおりに

今日のテーマです。

 

彼女は、エリシャの言葉を聞いて、直ちに行動します。

これがアブラハムの信仰であり、ここにアブラハムの祝福があります。

 

創世記12章をご覧ください。P15

 12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。

 12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。

 12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」

 12:4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。

 

アブラムは75歳。後でハが入り、アブラハムと呼ばれるのですが、75歳は、日本では後期高齢者であり、ここから新たな旅立ちをします。

 

アブラハムは、神を信じ、神に従うことによって、御心が天で行われるように、地でも行われ、神の約束を信じ、旅立ちました。

ここから神のドラマは、アブラハムの子孫を通し、この地上で展開されていくのです。

 

さて、彼女も、神の人の言葉に従って、直ちに行動し、異国の地で七年を過ごし、再びイスラエルに帰って来ます。

 

8:3 七年たってから、その婦人はペリシテ人の地から帰り、王のもとに自分の家と畑の返還を求めて訴え出た。

 

彼女が七年、留守にした間に、家と畑が他の人に奪われていました。

彼女は、自分の家と畑の返還を求め、王のもとに訴え出ました。

 

主の山に備えあり。

神に従う者には、神の不思議な備えがあります。

 

主は、彼女の願いを適えるために、最高のシチュエーション、舞台を準備されていました。

 

8:4 そのとき、王は神の人の従者ゲハジに話しかけ、「エリシャの行った大いなる業をすべて語り聞かせてくれ」と言っていた。

 

神に従う者には、神が時を備えて下さいます。

彼女が王の前に向かったその時、王がエリシャの従者ゲハジからエリシャの行った奇跡の数々を聞いていたのです。

 

ここにエリシャの従者ゲハジが登場します。

先週、ナアマン将軍が重い皮膚病を癒された話から学びましたが、ゲハジは、この後、誘惑に遭い、エリシャを騙し、ナアマンの贈り物を受け取り、重い皮膚病を患い、エリシャのもとを去っていったのです。

 

そのゲハジが、再び、登場しています。

ある聖書学者は、重い皮膚病を患ったゲハジは、隔離され、王の前には出ることは不可能なので、これは時系列が違う、と。

ゲハジが重い皮膚病を患う前の話だ、というのです。

 

私は、ナアマンを癒された神は、ゲハジをも癒されたと信じます。

むしろ、罪を犯し、重い皮膚病を患ったゲハジは、エリシャのそばで数々の奇跡を見て来たのです。

 

だから、彼が悔い改めて、癒され、回復し、再び、エリシャの従者となり、王の前に出て、証をした、という風に思うのです。

 

もちろん、実際は分かりません。

ただ、確かな事実は、ゲハジが、神に用いられ、エリシャを通してなされた神の奇跡、御業を王の前で証していることです。

 

しかも、彼の証が用いられ、彼女自身も王の前で証する機会が与えられた、ということです。

 

神様は不思議なお方です。

神様のなさることはみな、時に適って美しいのです。

 

神のドラマには伏線があり、後から伏線回収がなされます。

神様は、罪を犯したゲハジをも用いて、彼に証しさせ、その証が真実であることを王に示すために、彼女がそこに現れるのです。

 

8:5 神の人が死人を生き返らせたことをゲハジが王に語り聞かせていると、ちょうどそのとき、かつて子供を生き返らせてもらった婦人が、自分の家と畑のことで訴えに来たのであった。ゲハジは、「わたしの主君、王よ、これがその婦人です。またこれがその子で、エリシャはこの子を生き返らせたのです」と言った。

 

神のタイミングは、ジャストタイミングです。

神様のドラマは、完璧であり、ドンピシャのタイミングで、彼女が現れ、ゲハジも王も驚いたでしょう。

 

一番驚いたのは、彼女です。

まさか、そこで自分の身に起こった神の御業、奇跡を、王の前で証することになるとは、思ってもいなかったでしょう。

 

8:6 婦人は王の求めに応じてその事実を語った。そこで王は彼女のために、一人の宦官に次のように命じた。「この婦人の物をすべて返しなさい。またこの地を後にした日から今に至るまでの畑のすべての収穫も返しなさい。」

 

王は、彼女の証を聞いて、心動かされ、言いました。

「この婦人の物をすべて返しなさい。またこの地を後にした日から今に至るまでの畑のすべての収穫も返しなさい。」

 

彼女の願いは、不思議な方法で、見事にかなえられていったのです。

 

祈ること、願うことをあきらめないでください。

大切なことは、誰に祈り、誰に願うかです。

 

私たちの造り主であり、救い主であり、助け主である主を見上げ、主にすがりついて、主の言葉、約束を握り締めて、祈り続けましょう。

 

主の言葉を聞いたならば、直ちに従いましょう。

そうすれば、主は時を備え、私たちが願う以上の、御心にかなう御業を成し遂げてくださると信じます。

お祈りいたします。