『身を洗え、そうすれば清くなる』
(列王記下 5章8節~14節)
(2024年6月30日 ベテル清水教会 聖日礼拝説教)
私が伝道師になったばかりの時、高砂にくにちゃんという子がいました。
彼女は中学生、聖書を読み、蛍光ペンで線を引きまくっていました。
ある時、「先生、ここ面白い」とゲラゲラ笑いながら、ピンクでマーカーした個所を、わたしに見せてくれました。
それは、列王記下2章にあるエリシャの奇跡と書かれている一場面です。
子供たちがエリシャを嘲り、「はげ頭、上って行け、はげ頭、上って行け」という言葉に、ピンクのマーカーを引いて、笑っていたのです。
30年以上前の話ですが、その時の光景が今でも鮮明に覚えています。
ここに線を引くか、と突っ込みましたが、笑える内容でもありません。
この後、エリシャが子供たちを睨みつけ、子供たちを呪うと、森から二頭の熊が現れ、熊に引き裂かれる、というショッキングな内容でした。
なぜ、彼女は、そこを読んで笑い、線を引いたのか。
なぜ、これが「エリシャの奇跡」なのか。
私には、謎であり、ここを読む度に、その時の光景を思い出すのです。
彼女は、その後、すぐに引っ越し、笑った理由は、今も謎です。
中学生ですから、はげ、という言葉に、一人バズったのかもしれません。
しかし、今回、列王記を黙想する中で、もう一つの謎が解けました。
これは、主は生きておられることを教え、示すための奇跡なのだ、と。
熊に裂かれた子供たちの姿は、神に背いたイスラエルの子孫の姿です。
実際、イスラエルの子孫は、神に背き、預言者を嘲り、神に呪われ、アッシリアとバビロンという熊のような国に襲われ、引き裂かれたからです。
この時、子供たちがエリシャに呪われた場所は、ベテルです。
ベテルは、かつてヤコブが神と出会い、祭壇を築いた聖なる場所です。
この教会も、ヤコブのエピソードから「ベテル」と名づけ、先ほども「ここはベテル」と讃美し、ここは聖なる場所です。
列王記を見ると、このベテルが汚され、偶像礼拝の拠点となりました。
北イスラエルの王ヤロブアムは、ベテルに偶像の祭壇を築いたからです。
その結果、神の怒りを招き、アッシリアによって滅ぼされるのです。
さらに南ユダも、同じように、バビロンによって滅ぼされるのです。
このエリシャの奇跡は、イスラエルの民に、主は生きておられることを教え、今も、私たちに教え続けているのです。
当時、私は、エリシャが子供たちを呪った意味が分かりませんでした。
その後、聖書を読み、呪いとは、祝福が失われた状態を意味することを知りました。
モーセの律法、申命記28章以降には、神の祝福と神の呪いについて、詳しく書かれています。
モーセは、最後にこう告げています。
30:19 わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、
30:20 あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。
神に選ばれた民には、生と死、祝福と呪いが目の前に置かれています。
どちらを選ぶかは、彼らの自由であり、選択の決断が迫られます。
ヨシュアの時代にも、ヨシュアは、民に「今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」と言いました。
私たちがこの世に生まれたのは、自分の選択ではなく、神の恵みです。
私たちが神に選ばれ、新しく生まれ変わったのも、神の恵みです。
アブラハムは、神に選ばれ、神に従い、祝福の道を歩みました。
神の祝福は、主を愛し、主の御声に聞き従う者に与えられる恵みです。
アブラハムは、主を崇め、主に従い、神の祝福を受けたのです。
私たちの前にも、生と死、祝福と呪いが置かれているのです。
大切なことは、日々、命を選び、神の祝福を選択し続けることなのです。
さて、聖書日課は、神の人、預言者エリシャの奇跡が続いています。
今朝は、神に選ばれ、病が癒され、神の祝福に与ったナアマンの話です。
ナアマンは、アラムの王の軍司令官でした。
異邦人であったナアマンが、どのようにして、イスラエルの神を知り、癒され、イスラエルの神を崇める者へと変えられていったのか。
人が癒され、救われるプロセスについて、ご一緒に学びましょう。
5:1 アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。
5:2 アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。
ナアマンは、アラム人です。
異国の地で、多神教を信じる環境で育ち、偶像を拝む人でした。
主がかつて彼を用いて
注目したいのは、ナアマンは、主を知る前から、神に選ばれ、主に用いられていた、ということです。
もちろん、この時、ナアマンは、主が私を用いて、アラムに勝利をもたらされた、とは思っておらず、知る由もなかったと思います。
彼が、後で知ったのか、知らずに世を去ったか、それは分かりません。
しかし、列王記の著者は、御心を知り、このコメントを残したのです。
自分の知らないところで、神の御手が伸ばされ、神が働いておられる。
これを私は「神のドラマ」と呼んでいます。
大切なことは、自分が神のドラマの中に生きていることを知ることです。
ナアマンは、重い皮膚病を患い、彼がイスラエルから捕虜として連れてきた一人の少女の言葉を通し、神のドラマが顕在化します。
5:3 少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」
イスラエルの神を信じる少女の一言が、トリガーを弾き、天が開かれ、御心が天で行われるように、地でも行われるようになるのです。
この少女は、ナアマンの家に仕える召使いでした。
彼女は、イスラエルで拉致され、異国の地で奴隷となります。
その姿は、エジプトの地で奴隷となって仕えたヨセフに似ています。
ヨセフは、主が共におられ、うまく事が運びました。
主がヨセフに知恵を与え、ヨセフが発した言葉は、伝言ゲームのように、王の耳にも伝わり、王の心を動かし、ヨセフは抜擢されます。
彼は、エジプトを危機から救い、ヤコブの家族も、救われたのです。
まさに、これも神のドラマであり、主はヨセフを用いられたのです。
さて、この少女もまた、神のドラマのトリガーを弾きます。
彼女の言葉は、伝言ゲームのように、人から人へ伝わって行きます。
女主人はナアマンに伝え、ナアマンは、アラムの王に伝え、アラムの王は、イスラエルの王に手紙を書き、ナアマンをイスラエルに遣わします。
5:6 彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」
5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」
ナアマンも、アラムの王も、少女の言葉を信じ、サマリアの預言者を訪ねて来たのです。
しかし、イスラエルの王には、信仰がなく、衣を引き裂きました。
衣を引き裂くのは、神を畏れ、悔い改める時の姿です。
しかし、王は、神を畏れず、アラムの王を恐れ、震え上がったのです。
5:8 神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
少女が伝えた言葉、無駄にならず、神のドラマは続きます。
今度は、誰かが、エリシャに、これらの一部始終を伝えたのです。
すると、エリシャは、王のもとに、人を遣わし、「その男をわたしのところによこしてください」と伝え、ついにエリシャの家に向かうのです。
神のドラマが始まると、神様は、未信者や不信仰な人も用いられます。
癒しの御業が起こる時にも、救いの御業が起こる時にも、神のドラマが地上で展開される時には、悪役も、脇役も活躍します。
病気やサタンですらも、神の御業のために、用いられる。
聖書を読むと、そのことが良く分かります。
もし、ナアマンが病気にならなければ、エリシャのもとに行きません。
もし、偶像を拝むアラムの王の許しなしに、イスラエルに行けません。
もし、神に背くイスラエルの王が、エリシャの言葉を聞いて、その言葉に従わなければ、この後のドラマは起こりません。
神様は、偶像を拝むアラムの王も、不信仰に陥っていたイスラエルの王さえも、その心を動かし、用いて、御自分の御業を成し遂げられるのです。
5:9 ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。
5:10 エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」
さて、ナアマンは、エリシャの家に到着します。
ナアマンは、アラムの将軍です。
きっとイスラエルの王にも、国賓待遇並みに迎えられたことでしょう。
しかし、エリシャのところに来ると、エリシャは姿を見せません。
家から出てきた人が、エリシャの言葉を伝えたのです。
この態度に、その言葉に、ナアマンがブチ切れます。
5:11 ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。
5:12 イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。
神の御業は、神の方法で成し遂げられます。
ナアマンは、自分がイメージしたものと違っていたのです。
救い主が世に現れた時もそうです。
イスラエルの民は、自分たちのイメージとは違ったので、憤慨しました。
救いの御業は、神の言葉どおり、神の方法で成し遂げられたのです。
ただ、イエス・キリストを信じる。
その信仰によって、恵みによって救われるのです。
救いはシンプルです。
しかし、人間は複雑であり、自分のプライドや、自分のイメージに捕らわれ、素直に受け入れることはできないのです。
この時、彼の家来たちが、ナアマンに近づき、彼を諫めました。
5:13 しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」
5:14 ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
今日の御言葉です。
身を洗え、そうすれば清くなる
今日のテーマです。
家来が主人を諫める。
これは勇気のいることです。
この時、神様は、この家来たちを用いて、ナアマンを諫めたのです。
家来たちは、ナアマンに、こう言いました。
『身を洗え、そうすれば清くなる』
この言葉に従って、ナアマンは、ヨルダン川に向かいます。
七度、ヨルダン川に身を浸すと、癒され、清くなったというのです。
これがナアマンの身に起こった神のドラマです。
このドラマは、私たちの周りにも起こります。
少女の一言が、天を動かし、神の御業がこの地で始まったように、私たちの信仰の言葉、証が、私たちの周りにいる人々を救うのです。
みなさん。私たちは、毎週、礼拝で主の祈りを祈っています。
御心が天で行われるように、地でも行われるように、と。
神の御業、神のドラマがこの地で行われるためには神の言葉が必要です。
御言葉が語られ、御言葉に従う時に、神のドラマが地上で展開されます。
今日、私が注目したのは、ナアマンは、アラムの地で、少女を通し、神の人、預言者エリシャの存在を知りました。
そして、エリシャに会いに行きましたが、直接会っていません。
エリシャに会うのは、神の御業を体験し、癒されてからであり、今日の聖書日課では、エリシャに会って、信仰を告白し、感謝を述べています。
ここから教えられることがあります。
それは、神様は、神の言葉を知っている私たちをも用いられる、ということです。
少女は、自分の置かれた場所で、ナアマンが病気であることを知り、奥さんに証したのです。
5:3 少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」
この言葉が、この信仰、この告白が、ナアマンを癒し、救いへと導くことになったのです。
この少女が証し、妻が伝えなければ、このドラマは始まっていません。
きっと少女も驚いたでしょう。
たった一言の証が、伝言ゲームのように伝わり、一人の人物を救い、それが聖書に記され、世界中のクリスチャンたちにも伝わったのです。
彼女は、主の御名を崇めたと思います。
イスラエルの地から捕虜として、連れて来られ、異国の地で奴隷となり、涙の日々を過ごしたと思います。
しかし、自分の置かれた場所で、主を信じ、主と共に歩み続けました。
おそらく、ヨセフのように、彼女を通し、ナアマンの家は祝福され、信頼されるようになったのだと思います。
だから、彼女が語ったその一言が、ナアマンの妻を動かし、ナアマンを動かしたのです。
彼女は、癒され、イスラエルの神を崇め、帰って来たナアマンの姿を見て、主を崇め、讃美したことでしょう。
みなさん。イエス様は救い主です。
イエス様のところに救いがあります。
イエス様のところに行けば、何とかなる。
そう言って、私たちは救い主の存在を伝えるために、選ばれたのです。
私たちの周りにいる人たちに、神の言葉を伝え、証しましょう。
神の言葉には力があり、その言葉が発せられると、神のドラマが動き始め、いろんな人を用いて、神様は御業を成し遂げてくださると信じます。
シンプルに、イエス様のところに行けば、癒される。救われる、と証していきましょう。
お祈りいたします。