『神の日の到来を待ち望む』
(ペトロの手紙二 3章10節~18節)
(2024年6月16日 ベテル清水教会 聖日礼拝説教)
人生は筋書きのないドラマです。
私たちが思い描く通りには展開してくれません。
しかし、造り主なる神の存在を信じ、神の国(支配)の中に身を委ねて歩み始めると、歴史の中にも、私たちの人生の中にも、筋書きを描き、救い主を遣わし、守り、導いておられる神様をリアルに体験できます。
神様は不思議なお方であり、なさることも不思議に満ちています。
神様の御業、神のドラマには、必ず伏線となる備えがなされています。
神を信じ、聖書を黙想し、人生を振り返る時、伏線回収を経験します。
私たちにとって、マイナスと思える出来事さえも、神様は万事を益に変え、神の筋書きとなり、すべてが讃美に、感謝へと変えられていきます。
私は、今晩から福岡に向かい、火曜日まで、北九州LIVE礼拝グループのメンバーたちとお会いし、交わる時を持ちます。
実は、この交わりも、新型コロナというマイナスの出来事がなければ、ライブ礼拝をすることがなく、母の友人の姉妹たちとも、御言葉メールを送るだけの交わりで終わっていたと思います。
北九州のメンバーたちも、牧師が召され、教会が閉鎖し、礼拝する場所が失われるというマイナスの出来事がありましたが、このLIVE礼拝が用いられ、交わりが生まれ、91歳のF姉が救われ、ほかのメンバーたちも転会し、今、こうして毎週、一緒に礼拝を捧げているのです。
神様のなさることは不思議であり、神様のドラマには伏線があります。
実は、明日の夜、その閉鎖され、売りに出されていた教会を買って、新たに宣教活動を始められた先生と、お会いする予定です。
しかも、この先生は、先日、来られた加藤先生の友人であり、昔、QTを教えに来てくれた大阪オンヌリ教会の李先生と、今、同じミッションスクールで働いておられ、交友誌のS姉の証の中にも登場する先生なのです。
さらに、不思議なことは、今週、KBIの宣教ウィークなのですが、以前、この教会で奉仕された田口神学生と神澤神学生のお姉さんが、その先生が買われた教会に宿泊し、宣教ウィークを過ごされているのです。
神様のなさることは、本当に不思議です。
今週の祈りの課題にもありますが、ぜひ、北九州LIVEグループの方々のためにお祈りし、今回の訪問が祝福され、良き交わりと新たな出会い、導きがあるように。ぜひ、覚えてお祈りください。
さて、聖書日課はペトロの手紙を読んできましたが、今日がラストです。
当時のクリスチャンは、迫害される中でも、主の言葉、主の約束を信じ、主の再臨を待ち望んで、祈っていました。
しかし、いつまで経っても、主は来ない。
主は「わたしはすぐに来る」と約束されたではないか。
なぜ、すぐに来てくれないのか。
終末の遅れ、終末遅延の問題が、クリスチャンの信仰を揺さぶりました。
主の約束が実現しない時にも、信仰が揺さぶられます。
イエス様は、「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」と約束しました。
だから、クリスチャンはイエスの名によって祈ります。
祈りの課題を聞くと、主の御業が起こり、御名を崇めさせてください、主の栄光が現れるように、と主に執り成し祈ります。
私たちは、主に祈ってすぐに聞かれることもあります。
また、しばらくして、祈りが聞かれたことに気づくこともあります。
しかし、いくら祈っても、状況が変わらない。
むしろ、事態は悪くなり、なぜですか、と言いたくなる時があります。
詩編には、ダビデの叫びがあり、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫んでいますが、同じ気持ちになります。
「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか」と嘆きたくなる気持ちも理解します。
しかし、詩人の叫びは、やがて讃美に変わり、聖書は教えます。
すべてことには時があり、時が来れば、必ず実を結ぶ、と。
主の御業が起こる日、神の日には、時があり、必ずその時は来る。
信仰とは、主と主の言葉、約束を信じ、最後まで忍耐して待つことです。
さて、ペトロは、終末遅延の問題に対し、昨日の箇所でこう答えています。
3:8 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
昨日、この御言葉を黙想し、御言葉メールを送りました。
週報の裏面にもありますが、お読みします。
主は「わたしはすぐに来る」と約束し、教会では主の再臨を待ち望んでいました。迫害が強まり、嘲られ、なぜ、主はすぐに来て彼らを裁き、救ってくださらないのか、と、再臨遅延の問題が信仰を揺さぶりました。
神の愛と忍耐は、キリストを呪い、嘲り、十字架に付けた人にも向けられました。
ペトロは神の愛と忍耐によって赦され、立ち直った人です。
神の御心は、皆が悔い改め、救いに至ることです。そのためにキリストを遣わし、聖霊を遣わし、弟子たちを遣わされたのです。
神の愛と忍耐は、クリスチャンを嘲り、迫害する人々にも及び、その時代、その地域だけでなく、次世代や多の地域の人々も対象です。
パウロも、神の愛と忍耐によって救われ、キリストの福音は、世界中に届き、私たちは、約束の実現が遅れているおかげで救われたのです。
神様は一日千秋の思いで、忍耐し、今も待っておられるのです。
主の日、神の日は、罪ある者には、裁きの時であり、滅びの日です。
しかし、主に立ち帰る者には、恵みの時であり、救いの日なのです。
今朝は、その続きです。
3:10 主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。
3:11 このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。
世の終わりも、人生の終末も、いつ来るのか分かりません。
ペトロは、その日は、盗人のようにやって来る、と言ったのです。
これは、ペトロ自身、イエス様から聞いていたことです。マタイ24章。
24:42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
24:43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
24:44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
主の日は必ず来る。しまも突然来る。
だから目を覚まし、聖なる信心深い生活を送りなさい、というのです。
日々のQTは、聖なる信心深い生活をする上でとても有益です。
御言葉によって、常に主に立ち帰り、主を待ち望むからです。
3:12 神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。
3:13 しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。
今日の御言葉です。
神の日の到来を待ち望む
今日のテーマです。
神の日の到来は、主に立ち帰る者には、恵みの時であり、救いの日です。
イエス・キリストの到来によって、神の日は訪れ、今も、主に立ち帰る者は、神の恵みによって、救いを体験します。
今日、昨年、私たちの教会で病床洗礼を受け、神の恵みによって救われたN兄の娘さんが、京都の教会で洗礼を受けられます。
彼女は、不思議な神様の御業を体験し、洗礼を受けたいと願いました。
ずっと祈って来て、ついにその日が訪れ、M姉も喜んで、今日は京都の教会に娘さんと一緒に出席されています。
神様のなさることは不思議であり、伏線があります。
お父さんが救われる前に、福音を伝え、祈り続けた姉妹の存在があり、父親の救いの御業もまた、娘さんが救われるための伏線となったのです。
神の日の到来は、恵みの時であり、救いの日です。
しかし、それは同時に、裁きの時であり、滅びの日なのです。
初代教会の人々は、自分たちを迫害する者たちを裁き、早く主が来て、救ってほしい、と願っていました。
しかし、主の御心は、彼らだけが救われることではなかったのです。
敵対する者も迫害する者も、皆が悔い改めて、義の宿る新しい天と地を待ち望む者となることを願って、神は忍耐しているのだ、とペトロは語ったのです。
しかし、この神の忍耐にも、終わりがあります。
それが神の日の到来する日なのです。
マタイ24章で、イエス様は、終末の徴について語っています。
その時、「わたしがメシアだ」と言って、惑わす人が大勢現れます。
戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞き、飢饉や地震が起こります。
24:9 そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
24:10 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
24:11 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。
24:12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
まさに、ペトロの時代も、今も、終末の時代であると言えます。
いつになったら、終わりが来るのか。
ひょっとしたら、神様は最後まで忍耐し、終わりは来ないのではないか。
そう考え、世に戻る人たちもいたのです。
イエス様は、こう語っています。
24:14 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
福音が全世界に福音が宣べ伝えられたら、終わりが来る、と。
もう一度、今日の御言葉を読みします。
3:12 神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。
3:13 しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。
それが来るのを早めるようにすべきです。
ペトロも、パウロも、神の日の到来を待ち望んでいました。
その日が早く来るようにと、彼らは出て行って福音を宣べ伝えたのです。
神の日が来るのを待ち望みながら、福音を伝え、証する。
実は、これが教会の使命であり、私たちに与えられている使命なのです。
自分が救われ、天国が約束され、保証され、万々歳で終わらないのです。
神様の恵みによって救われたことを証しながら、福音を伝え、義の宿る新しい天と新しい地を、一緒に待ち望む人になる。
これが私たちの使命です。
この後、讃美しますが、新聖歌467番の歌詞はストレートな内容です。
1.世の終わりのラッパ 鳴りわたる時 世は常世の朝となり
救われし者は 四方の隅より すべて主のもとに呼ばれん
※ その時 我が名も その時 我が名も
その時 我が名も 呼ばれなば必ずあらん
2.その時 眠れる聖徒 よみがえり 栄えのからだに変わり
われらも共に 携え挙げられ 空にて主に会いまつらん
3.世の業を終えて 天つ 憩いに 招かるる日近ければ
なおも主の愛を 世人に語り 御栄えのために尽くさん
この讃美の如く、神の日の到来、招かるる日が近ければ、
なおも主の愛を、世の人々に語り、証し、神の栄光のために尽くす者でありたいと願います。
3:14 だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。
3:15 また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。
神に認めていただけるように励みなさい。
世の終わり、人生の終わりを迎える時に、最も大切なことは何か。
それは神に認められること、神に義とされることです。
神に認められることを「義認」と呼びます。
罪ある人間は、どんなに努力しても傷や汚れが何一つなく、平和に過ごすことはできません。
そのことを一番強く体験した人がパウロです。
彼は、自分の力で神に認められようと励んだ結果、神の御心とは真逆の生き方をし、クリスチャンを迫害する人になりました。
ペトロは、ここでパウロのことを紹介しています。
パウロは、まさに、主の愛(恵み)と忍耐によって、救われた人です。
もし、神様が容赦なく、忍耐せず、すぐにパウロを裁いていたら、彼は救われることはなかったのです。
パウロは、主の忍耐を体験し、神の恵みによって、信仰によって救われる、という信仰義認を語り、それを手紙に書いたのです。
3:16 彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。
3:17 それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。
しかし、このパウロの手紙を曲解し、間違った福音、異端的な教えに従って、不義の道を歩む人々がいました。
また、せっかく恵みによって救われたのに、律法主義への道に戻る人たちもいたのです。
だからペトロは、救われる前の元の生活に戻らないように、
神の恵みと知識において、成長し続けるようにと語るのです。
3:18 わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。
クリスチャンは、日々、霊的成長が必要です。
ペトロの言葉で言えば、霊の乳である御言葉のミルクを飲んで、成長し、成熟していく必要があるのです。
ですから、日々、QTを実践しましょう。
恵みと知識において成長し、神の恵みを存在の基盤として歩みましょう。
QTを生活の基本として、神の日の到来を待ち望みましょう。
礼拝を人生の中心として、神を崇め、その日、その時に備える者でありますように。御名によって祝福します。
お祈りします。