『聖なる者となりなさい』
(ペトロの手紙一1章13節~16節)
(2024年6月2日 ベテル清水教会 聖日礼拝説教)
最近、年齢と共に、時間が過ぎるのがとても早く感じます。
同じ時間なのに、長く感じる場合と、短く感じたりすることがあります。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、苦難の時には長く感じられます。
ある人が神様に、こんな質問しました。
「神さま、あなたにとって1000年はどれぐらいの長さでしょうか」。
すると、神様は「一瞬であり、一日のようだ」と答えました。
彼は、続けて、質問をします。
「神様にとって1000万円は、どれぐらいの価値でしょうか」。
すると、神様は「1円ぐらいかな」と答えます。
それを聞いて、彼は神様に祈りました。
「神様。その一円で構わないので、私に与えて下さい」
すると、神様は、「分かった。一日、待ってなさい」と答えました。
これは、ペトロの手紙の中にある「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」という御言葉から生まれたジョークです。
さて、聖書日課は、久しぶりに新約聖書、ペトロの手紙になりました。
ペトロは、神に選ばれ、キリストを信じ、弟子となり、仕えた人です。
彼は、十字架と復活の目撃者であり、聖霊の力を受け、福音を伝えます。
すると、多くの人がイエスをメシアと信じ、救われ、各地に教会が誕生していきました。
福音が伝えられ、クリスチャンが増えると、迫害が始まりました。
この手紙が書かれたのは、皇帝ネロの迫害が始まった紀元64年~66年頃だと言われています。
迫害を受け、命を守るために、クリスチャンたちは、難民のように、エルサレム、ユダヤを離れ、各地に離散していったのです。
先週、列王記のエリヤ物語から説教をしました。
エリヤは、神に選ばれた預言者でした。
彼は、バアルの預言者たちと戦い、主の御業を体験し、勝利します。
その直後、イゼベルに命を狙われ、急いで荒れ野に逃れます。
その時、主は天使を遣わし、彼にパンと水を与え、力づけ、ホレブの山へと導き、静かなる細き声をもって、彼に使命を与えます。
エリヤは、列王記下の2章を見ると、エリシャにバトンタッチし、最後は嵐の中、火の車と共に、天に上って行くのです。
このエリヤの生涯は、クリスチャンライフに似ています。
私たちも神に選ばれ、神の御業を体験し、信仰の戦いに勝利します。
しかし、イエス様は「あなたがたには世で苦難がある。」と言われましたが、一難去ってまた一難があり、エリヤのように疲れることがあります。
しかし、主は、エリヤを離れず、天使を遣わし、パンと水を備え、力づけられたように、私たちを離れず、勇気を与えて下さるお方です。
救い主、助け主を遣わし、主の山、主の家で安息させ、命のパンと生ける水で力づけ、終わりの日に、天国へと凱旋させてくださるお方なのです。
ペトロは、1章5節で、こう語りました。
1:5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。
この終わりの時とは、終末の時、主の再臨の時です。
その時、主は来て、天に用意された場所へと引き上げてくださるのです。
ペトロは、その時まで、終わりの日まで、神の力と信仰によって、あなたたちは守られているのだ、と語ったのです。
実際、ペトロも、ゲッセマネの園で、ペトロの信仰が無くならないように祈られた祈りを、覚えていたと思います。
彼らは、散らされた場所で、共に集まり、礼拝を捧げました。
彼らは、神の力(聖霊)の助けと信仰によって守られていたのです。
彼らは、迫害と苦難の中で、主を待ち望んで祈っていました。
彼らは、もうすぐ主が来て、救ってくださると信じていたのです。
しかし、いつまで待っても、主は来られず、待ちくたびれてきました。
主はいつ帰って来るのか。本当に主は来て、救ってくださるのか。
当時、教会では、終末の遅延が大きな問題となっていたのです。
ペトロは、この問題に対し、二通目の手紙でこう語っています。P439
3:8 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。
3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
私たちは、聖書を読むと、今は終末の時代だと感じます。
聖書の時間軸では、カウントダウンが進み、終末の予兆が現れてます。
地震や疫病、国と国が争い、愛が冷え、聖書を知る人は、世も末だ。終末は近いと思って当然です。
しかし、それは、いつの時代も同じです。
ペトロが手紙を書いた時代も、終末意識が高まっていました。
また、長い歴史の中でも、クリスチャンたちは、常に終末を意識するような状況を経験し、主の到来を待ち望みつつ礼拝を捧げて来たのです。
主は今も生きて働いています。
主はかつて来られ、やがて来られ、今も来て、共におられるお方です。
この視点を忘れず、終末の時代を意識しつつ、この手紙を一緒に読んで参りましょう。
さて、今朝は、1章13節~16節の御言葉を取り上げました。
1:13 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
イエス・キリストは、すでに世に現れました。
これがファーストカミング。クリスマスの出来事です。
誰でも、イエスをメシアと信じるならば、神の恵みが与えられ、新しく生まれ変わり、神の子となり、永遠の命が与えられます。
これが魂の救いです。
ペトロは、この恵みを受けた人、魂の救いを受けた人について語ります。
1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
1:9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。
私たちは、先ほど、「イエス、愛します、愛します」と讃美しました。
私たちが、主を愛し、主を信じ、主を求め、主を待ち望み、この讃美を歌えるのは、信仰の実りとして、魂の救いを受けている証拠です。
もう一度13節をお読みします。
1:13 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みには、先に与えられる恵みと、後から与えられる恵みの二種類あります。
一つ目の恵みは、先に与えられる恵みであり、魂の救いです。
二つ目の恵みは、後で与えられる恵みであり、神の報い、神の祝福です。
先に与えられる恵みは、私たちの行いによらず、イエスの行い(十字架と復活の御業)によって、すでに現れたイエスを信じる者に与えられる神の恵みなのです。
彼らは、この恵みを受け、試練の中でも、喜びに満たされていたのです。
イエス・キリストは、天に昇り、聖霊を遣わされました。
聖霊は、キリストの霊であり、今も私たちと共におられます。
主の恵みを受け、主の言葉に従う者には、恵みの上に、更に恵みが増し加えられる、という体験をします。
これが後から与えられる恵みであり、従う者への報い、神の祝福です。
アブラハムの祝福も、神に従った結果、与えられた恵みです。
先週まで列王記を読んでいました。
イスラエルの民は、神に選ばれ、神の恵みによって、宝の民、聖なる民となりました。
しかし、彼らは、先に与えられた神の恵みを軽んじ、主の目に悪を行い、偶像を拝み、神の祝福が閉ざされていくのです。
これを聖書は「呪い」と呼びます。
せっかく神に選ばれ、恵みを受けても、主の目に悪を行い、主に立ち帰らなければ、祝福が閉ざされてしまう。
そのことを、列王記やイスラエルの歴史は、私たちに教えています。
神様は、主と主の言葉に従順する者に、報いを携えて来られるお方です。
黙示録22章には、こう語られています。
22:12 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
主が再び来られる時、終わりの日に、行いに応じて報いがなされます。
この報いは、主が再び現れた時に与えられる神の恵みなのです。
神様の願いは、私たちがイエス・キリストを信じ、神の恵みによって救われ、神の子となり、永遠の命を持って、それで終わりではありません。
神様が私たちを選び、神の子とされたのは、世の光、地の塩となり、神の子にふさわしい者へと変えられ、証人となり、祝福を流し出すためです。
これが神に選ばれ、救われ、神の子とされた者の使命なのです。
1:14 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、
1:15 召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。
1:16 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。
聖なる者となりなさい
今日のテーマです。
1:15 召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。
今日の御言葉です。
神様は聖なるお方です。
聖なる方、イエス様をモデルとして、生活しなさい、というのです。
「聖なる」という言葉は、ヘブル語は「カドシュ」と言います。
これは「分離する」「区別される」「分けられる」という意味です。
神様は、イスラエルの民を選び、彼らを聖別し、聖なる民と呼びました。
それは、彼らが罪や汚れがないという意味ではありません。
彼らは、罪に汚れ、何度も主の目に悪を行い、とても聖なる民とは思えない姿が聖書には描かれています。
実際、今のイスラエルの姿を見ると、聖なる民とは思えません。
彼らは、罪と汚れがなくなり、聖なる者とされたのではありません。
罪と汚れがあるのに、聖なる民と呼び、そう呼ばれるのにふさわしい民となるように、神が選び、他の民と区別し、分けられたのです。
私たちも同じです。
私たちは、イエス・キリストによって、聖なる者とされました。
クリスチャンは聖徒と呼ばれ、神の支配の中に生きる民です。
神の子とされ、神の家族として、イエス様に倣う者となり、栄光から栄光へと主と同じ姿へと変えられていく民なのです。
新年度、私は聖別の大切さを示されています。
主に喜ばれる礼拝、聖別された礼拝が捧げられ、主の臨在が満ち溢れるように、この礼拝堂を聖別し、礼拝に備えています。
また、自らを聖別し、主を待ち望み、主の山に登ってくる人たちが、この場所で安息し、御言葉と聖霊によって、力を得て、神の子としての使命を果たす者となるように、と願っています。
主は、主に従う者に、報いてくださるお方です。
救いは、神の恵みです。
祝福は、神の言葉に従順する者に与えられる報いなのです。
主が現れる時、主はこの報いを携えて、来られます。
いつ、主が来られてもいいように、心を引き締め、身を慎んで、主を待ち望みましょう。
そのために、聖別する時間、QTを生活の中で実践していきましょう。
そうすれば、恵みの上に更に恵みが増し加えられる時が来ると信じます。
お祈りします。