『計らったのはわたしだ』
(列王記12章21節~33節)
(2024年5月5日 ベテル清水教会 聖日礼拝説教)
今日のイントロは、ちびまる子ちゃんです。
例話やイントロ話は、一度、聞くと覚えているものですが、その後、何を語り、何が伝えたかったのかは、覚えていないものです。
性格が暗いタイプの永沢君が「僕は神様なんっていない気がするんだ」と言いました。
同じタイプの藤木君が「ぼくもそう思う」と答えます。
性格が明るいタイプの大野君と杉山君は「いや、俺はいると思うぜ」「おれもいると思うよ」と答えます。
性格がネガティブな子が「いる訳ないじゃん。見たこともないし」というと、永沢君が、ぽつんと、つぶやくのです。
「いると思っている人は、運がいい人ばかりだね」
これに対し、藤木君も「そうだね」と答えて終わる四コマ漫画です。
神様がいるのか、いないのか。
いると思っているのか。いないと思っているのか。
これは、人の生き方、考え方、価値観に影響を与えます。
ある家に電話があり、小さな男の子が出て、「お母さんいる」と聞かれ、「いらない」と答えたという笑い話もありますが、神様がいるのにこんな目に遭って、そんな神様なら「いらない」と思っている人もいるかもしれません。
私も、神様が「いる」と思っている人は、運がいいと思っていますが、主が共にいる人は、ヨセフのように、たとえ不運な出来事に遭遇しても、うまく事が運ぶと信じています。
さて、聖書日課は、列王記を読んでいます。
ソロモンも、神が「いる」と思って生きて来た人であり、主が共にいて、うまく事が運び、神殿が完成し、栄華を極めます。
大切なのは、その後です。
ヨセフは、成功しても、主から離れませんでした。
ソロモンは、主から心が離れていくのです。
彼は、富と権力を手にすると、欲望に走り、心にズレが生じます。
外国から大勢の妻を迎え、偶像を拝むようになり、主の怒りを招き、やがて国が分裂する、と告げられます。
主は、ソロモンを懲らしめ、主に立ち帰らせるために、彼に敵対する者を起こされます。
それが、先週、礼拝でお話した後の出来事です。
神様は、御心を成し遂げられるお方です。
御心が行われるためには、時には、敵対する者まで用いられます。
ヨセフの場合、ヨセフを妬んで、殺そうとした兄たちをも用いました。
出エジプトの時は、ファラオの悪を用いて、民を救いました。
この列王記では、アッシリアやバビロンさえも用いられるのです。
この神様の計らい、計画は、信仰がなければ理解できません。
いや信仰があっても、苦難の最中は、理解するのは難しいのです。
さて、12章の小見出しには「王国の分裂」とあります。
11章で、主がソロモンに語られた言葉が現実となります。
イスラエルは、北の10部族と南の二部族とに分断します。
この南北の最初の王が、今日出て来るレハブアムとヤロブアムなのです。
まるでウルトラマンに出てくる怪獣のような名前です。
レハブアムは、南ユダ、ユダ族とベニヤミン族の初代王様です。
一方、ヤロブアムは、北イスラエル、残りの十部族の初代王様です。
今朝は12章を取り上げています。
北の部族は、ソロモンが課した重税と過酷な労働に苦しんでいました。
彼らは、エジプトに逃れたヤロブアムを呼び戻し、彼と一緒にレハブアムのところに行って、軽減してほしい、と頼んだのです。
これに対し、レハブアムは、長老たちに助言を求めます。
長老たちも、ソロモンの政策は厳しすぎると思ったのでしょう。
彼らの願いに答えたらよい、と除染しました。
しかし、レハブアムには、その気がありませんでした。
彼は、自分と同じ意見を持つ若者の言葉に従い、さらに厳しくする、と伝えたのです。
その結果、北の部族は、もうだめだ。ついていけない、と反発し、ヤロブアムを王に立て、南北戦争が勃発するのです。
今朝は、その続き、金曜日の聖書日課の箇所を取り上げています。
12:21 レハブアムはエルサレムに帰ると、ユダの全家とベニヤミン族からえり抜きの戦士十八万を召集し、イスラエルの家に戦いを挑み、王権を奪還して自分のものにしようとした。
ヤロブアムが王になったという知らせを聞き、レハブアムは怒ります。
彼は、南ユダの戦士を集め、王権を奪い返そうとしたのです。
12:22 しかし、神の言葉が神の人シェマヤに臨んだ。
12:23 「ユダの王、ソロモンの子レハブアムと、ユダ、ベニヤミンのすべての家およびほかの民に言え。
レハブアムと南ユダの民の上に、主の言葉が告げられたのです。
12:24 『主はこう言われる。上って行くな。あなたたちの兄弟イスラエルの人々に戦いを挑むな。それぞれ自分の家に帰れ。こうなるように計らったのはわたしだ。』」彼らは主の言葉を聞き、主の言葉に従って帰って行った。
今日の御言葉です。
計らったのはわたしだ
今日のテーマです。
新改訳では「わたしが、こうなるように仕向けた」
最新の共同訳では、「このことはわたしから出たものである」と訳されています。
レハブアムからすれば、「はあっ」て感じです。
北の民がヤロブアムを王に立て、国が分かれていく。
なんで、それが主の計らいなんだ、と思ったと思います。
しかし、主は、彼だけではなく、民全体に、はっきりと言われたのです。
こうなるように計らったのはわたしだ。
主の言葉を聞いて、ユダの民は戦いに行くことをやめ、家に帰ります。
今日、覚えたいことは、神様は、御心を行うために、常に計らわれるお方だ、ということです。
それは運命的に、初めから決まっていて、すべて神様がロボットを操るように、コントロールされたということではありません。
神様は人間に自由意思を与え、人は、神に従うことも、逆らうことも、選択することができる自由を持っており、その自由には責任が伴うのです。
神様は、私たちに対し、こう生きて欲しいと願っています。
その願いに対し、人間は、御心に適う道を踏み外すのです。
神様は、道を外した者を、見捨てられるお方ではありません。
神様は、一人一人に計らって、御心に適う道へと導かれるお方です。
車のナビと同じです。
ナビも、道をズレると、何度も、軌道修正し、正しい道に誘導します。
同じように、主は、御心に適うように、私たちを導いて下さるのです。
これが主の計らいです。
ヤロブアムは、ソロモンに仕えていましたが、反旗を翻します。
その時、主はヤロブアムに現れ、こう告げられました。
11:38 あなたがわたしの戒めにことごとく聞き従い、わたしの道を歩み、わたしの目にかなう正しいことを行い、わが僕ダビデと同じように掟と戒めを守るなら、わたしはあなたと共におり、ダビデのために家を建てたように、あなたのためにも堅固な家を建て、イスラエルをあなたのものとする。
ソロモンに反旗を翻したヤロブアムにも、主の計らいがあったのです。
大切なことは、主の計らいに気づき、ダビデと同じ道に戻ることです。
彼は、主が計らってくださったのに、従わず、主の道に戻りません。
12:25 ヤロブアムはエフライム山地のシケムを築き直し、そこに住んだ。更に、そこを出てペヌエルを築き直した。
12:26 ヤロブアムは心に思った。「今、王国は、再びダビデの家のものになりそうだ。
12:27 この民がいけにえをささげるためにエルサレムの主の神殿に上るなら、この民の心は再び彼らの主君、ユダの王レハブアムに向かい、彼らはわたしを殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰ってしまうだろう。」
ヤロブアムは心に思った。
彼は、主の言葉を聞いて、御言葉を黙想したのではありません。
彼は、自分でよく考え、自分の思いが実現するように、行動するのです。
12:28 彼はよく考えたうえで、金の子牛を二体造り、人々に言った。「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である。」
12:29 彼は一体をベテルに、もう一体をダンに置いた。
12:30 この事は罪の源となった。民はその一体の子牛を礼拝するためダンまで行った。
ヤロブアムは、金の子牛の像を二つ作り、ベテルとシロに安置します。
神殿は、エルサレムにあり、北の民は、南ユダに下って、礼拝を捧げていました。
しかし、彼は、ベテルとシロ。二箇所に聖なる高台を築き、そこで礼拝を捧げます。
これが罪の源となり、民の心は主から離れ、偶像に向かうのです。
私たちの教会は、「ベテル」と名付けています。
これは創世記のヤコブの物語からですね。
列王記や歴代誌に出て来る「ベテル」を読むと、嫌な気持ちになります。
今日の聖書日課の13章の小見出しは「ベテルへの呪い」です。
ベテルは、神の家であり、主の臨在が満ち、祝福の源でした。
それがヤロブアムによって、聖所が汚され、偶像が祀られ、罪の源となり、呪いの場所に様変わりしてしまうのです。
そして、朝、読んだ聖書日課に出て来る神の人は、神に選ばれ、神の言葉に従って歩んで来たイスラエルの姿であり、それが偶像によって、偽預言者に欺かれ、滅びていく姿を、今朝の御言葉は語っていたのです。
改めて、私たちはHerrの讃美のように、ベテル~神の家が、この場所が、主の愛と力に満たされた場所であり続けるように、聖別することの大切さを教えられるのです。
12:31 彼はまた聖なる高台に神殿を設け、レビ人でない民の中から一部の者を祭司に任じた。
12:32 ヤロブアムはユダにある祭りに倣って第八の月の十五日に祭りを執り行い、自ら祭壇に上った。ベテルでこのように行って、彼は自分の造った子牛にいけにえをささげ、自分の造った聖なる高台のための祭司をベテルに立てた。
12:33 彼は勝手に定めたこの月、第八の月の十五日に、自らベテルに造った祭壇に上った。彼はイスラエルの人々のために祭りを定め、自ら祭壇に上って香をたいた。
ヤロブアムは、ダンとベテルに、聖なる高台を作ります。
そこにレビ人でない祭司を立て、主が定めた祭りではなく、勝手に祭りを行い、偶像礼拝をし、主の目に悪を行ったのです。
この列王記が書かれた時、イスラエルはどん底にいました。
バビロンの地で、国を失い、神殿を失い、絶望の中にありました。
主は、列王記を彼らに与え、御言葉を通し、主の御心を示し、バビロンの地にいるわたしたちにも、主の計らいがあることを示されたのです。
みなさん。主の御心は、主に立ち帰って、救いを得ることです。
悔い改めて、主の恵みを体験すると、苦難の中にも主の計らいがあったことを悟るようになります。
私たちの人生の中にも、主の計らいがあるのです。
時に、辛く、苦しく、なぜ、こんな目に遭うのかと嘆くことがあります。
しかし、聖書を読み、イエス様と出会い、主イエスと共に歩み始めると、「こうなるように計らったのはわたしだ」と語られる主の言葉が理解できるようになるのです。
このことも、あのことも、すべて主が計らわれたことだということに気づけたとき、暗闇の中に光が射し込むのです。
先週、星野富弘さんが天に召されたというニュースが流れました。
この知らせを聞いて、すぐに頭に浮かんだのは、私の神学校の先輩であり、交友誌にも祝辞を書いてくれた古屋先生でした。
すぐに先生からLINEが届き、以前、軽井沢の教会で牧師をされていた時、礼拝に来られていた星野さん夫妻と一緒に写した写真が届きました。
星野さんは、中学校の体育教諭となり、クラブ活動の指導中、着地に失敗し、頸髄を損傷。首から下の運動機能を失いました。
突然、寝たきりになり、絶望とどん底の中に突き落とされました。
母親は、ずっとベッドのそばに寝泊まりし、看病を続けます。
二年目、一人のクリスチャンが現れ、毎週、星野さんの世話をします。
その方に導かれ、聖書を読み、神様を信じ、四年目に洗礼を受けます。
星野さんを救いに導いた方が、隣に移っている奥様ですね。
星野さんは、筆を口にくわえ、詩や絵を描いて、多くの人々に生きる希望と励ましを与え、星野さんのカレンダーは、毎年、販売されています。
九州の笹山姉は、毎年、私の母に星野さんのカレンダーを送ってくれていて、今も、送ってくださり、毎年、我が家にも飾っています。
昨日、連絡網にYouTubeにあがっていたニュース映像を紹介しました。
冒頭に出てきた詩に、この詩がありました。
苦しくて どうしようもない時
いつもうかんでくることばがあった。
神様がいるんだもの なんとかなるさ
そして いつも なんとかなかった。
神様がいるんだもの。
神様がはかってくださっている、ということです。
だから、なんとかなるのです。
神様がいると思って、主と共に歩む人は幸いです。
神様がはかってくださるので、なんとかなるのです。
先週、星野さんの葬儀がYouTubeでも配信され、私も見ました。
式の最後、奥様が挨拶をされていました。
その中で、こんなエピソードを語られていました。
病室を訪ねた牧師先生が「星野さん。奥様に遺言を残されましたか」と尋ねられたそうです。
すると、星野さんは、「わたしは絵を描くと、詩を作ることが遺言です」と答えた、という話です。
かっこいいなと思いました。
神様は、星野さんの人生にも計らわれ、素晴らしいエンディングを用意されました。
イスラエルの民は、列王記を読み、聖書を読み、最も苦しい時に、御言葉を黙想し、主の計らいを見出すのです。
この苦しみの中にも、主はおられる。
だからなんとかなる、と主を待ち望み、苦難を耐え忍んだのです。
私たちの人生も同じです。
苦しくて、どうしようもない時のために御言葉が与えられているのです。
こうなるように計らったのはわたしだ。
神様が計らってくださる。
だから何とかなってきたし、これからも何とかなると信じ、主イエスと共に歩く道を歩んでいきましょう。
お祈りいたします。