『これは、主がなさったこと』
(マルコによる福音書12章1節~12節)
(2024年2月4日 ベテル清水教会 聖日礼拝説教)
2月になり、プロ野球がキャンプインしました。
日ハムも北海道移転20周年を迎え、ファン歴50年の私としては、特別な思いがあります。
あの不人気球団が、北海道に移転し、新庄選手の引退を宣言してからの活躍によって、日本一を果たしたシーンは、今でも目に焼き付いています。
昔、新庄監督は、選手時代「記録よりも、記憶に残る選手に」と語っていましたが、いつまでも記憶に残る名選手ですね。
かつて、落合選手は、「記録に残れば、記憶に残るだろう」と、プロ野球史上、三度、三冠王を獲りました。
大谷選手は、二刀流の活躍で、大リーグの記録を次々と塗り替え、世界中の人々の記憶にも残る選手になっていますね。
聖書は、神様が語り、神様がなされたことの記録が記されています。
今朝も、マルコが書いた記録を通し、主が語り、主がなさったことに注目していきたいと思います。
11章からは受難週、エルサレムで過ごした最後の週の話です。
イエス様は、弟子たちに、三度、死と復活を予告し、エルサレムに向かいます。
彼らは、主の言葉に驚き、恐れながら、主の後について行きました。
この時、弟子たちは、イエス様がなさること、御心を理解していません。
彼らは、三年間、ずっとイエス様の傍にいて、主の教えと主の御業を見て、イエス様をメシアだと告白し、三度も死と復活を予告されていたのにも関わらず、これから起こる出来事の意味を悟っていなかったのです。
イエス様の傍にいる弟子たちですら、その有様です。
群衆たちは、それ以上に、何もわからず、熱狂していたのです。
彼らは、イエスこそ、ローマの圧政から救って、国を建て直してくれるメシアだと思い、「ホサナ、ホサナ」と讃美したのです。
しかし、その数日後、彼らの心は豹変し、態度は一変します。
人々は「十字架に付けろ」と叫び、十字架に付け、殺してしまうのです。
これが11章~15章までの内容です。
主の言葉、主のなさることは不思議です。
主の御業は、後にならなければ分かりませんが、先に聞いていなければ、後から聞いて、知らなければ、何の関りもない出来事に終わります。
しかし、主がなされたことを知り、イエスをメシアと信じた人々にとっては、人生を一変する出来事となるのです。
弟子たちは、イエス様の側にいて、いつも先に聞いていました。
そして、後で主の言葉を理解し、それを周りの人々に伝えたのです。
私たちも同じです。
誰かから福音を聞いて、最初は理解できずいます。
しかし、教会に導かれ、主を信じ、従っていく中で、一つ一つのことを理解し、体験し、それを周りの人に伝えていくのです。
さて、イエス様は、エルサレムに入ると、宮清めを行いました。
神殿から商売人を追い出し、祭司長や律法学者、長老らと論争します。
弟子たちは、その姿、やりとりを、側で見て、聞いていました。
そして、このことの意味を悟ったのは、後になってからです。
今朝は、12章です。
12:1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
11章では、イスラエルのことを「いちじくの木」に例えましたが、今度は、「ぶどう園」に例えて語ります。
ある人とは、イスラエルの民をカナンの地へ導かれた神様のことです。
この農夫とは、イスラエルを治める指導者たちのことです。
12:2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
12:3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
12:4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
12:5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
彼らは、この地に植えられた民が、御心に従い、良い実を結ぶように、民を教え、民の模範となる使命がありました。
しかし、彼らは、実を結ばないいちじくの木のように、良い実を結ばず、ぶどう園は荒れ果てて行きました。
神に逆らい、神の祝福を失い、呪われた状態に陥っていたのです。
そこで、主は預言者を遣わし、主に立ち帰り、主に結ばれて、御心を行い、再び、良い実を結ばせようとしました。
しかし、彼らは、預言者たちを退け、バビロン捕囚を経験しながらも、同じ過ちを犯し続けたのです。これが、旧約聖書の時代です。
12:6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
12:7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
12:8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
神様は、独り子を世に遣わしました。
しかし、農夫たち、彼らは、イエスを捕まえ、十字架に付けるのです。
この時、弟子たちも、意味が分かっていなかったと思います。
旧約時代のことは、昔のことは理解しても、まさか、本当にそんなことが起こるとは、思ってもみなかったかもしれません。
キリストの十字架は、すぐに理解できる話ではありません。
今日は聖餐式がありますが、この聖餐式の意味も、洗礼を受けても、理解できるのは、後になってからです。
弟子たちは、イエス様と出会い、復活の主と出会い、聖霊に満たされてから、十字架と復活の意味を悟ったのだろうと思います。
12:9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
イスラエルの歴史を振り返ると、このたとえが真実だと分かります。
人々は、救い主を待ち望み、国が建て直されることを願っていながらも、神が遣わしたメシアをも殺し、与えられたぶどう園を失うのです。
紀元70年には、ローマの手によって、神殿は倒され、彼らは各地に離散し、主が再び集められる時まで、世界中に散らされたのです。
12:10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。
12:11 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」
今日の御言葉です。
これは、主がなさったこと
今日のテーマです。
主がなさったこと、主がなさること、主がなさろうとしていることは、わたしたちの目には不思議に見えます。
あり得ないこと、信じ難いことが語られ、なされるからです。
ユダヤ人たちは、旧約聖書、律法や預言書を通し、やがてメシアが現れ、国が建て直されると信じていました。
イエス様は、聖書に『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。と書かれてあるだろう、と言われたのです。
これは、詩編118編22節の引用です。
家を建てる者とは、イスラエルの王や指導者たちのことです。
隅の親石とは、来るべきメシア、救い主のことです。
この隅の親石は、アーチ型に石を積むときに最後に置かれます。
その石がなければアーチ全体が崩れてしまう。
また、隅の親石は、建物の土台、基礎、要の石とも考えられます。
家で言えば、大黒柱のようなものです。
彼らは、このたとえを聞いて、自分たちへの当てつけだと思って、イエス様を捕らえて、殺そうとします。
12:12 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。
彼らは、このたとえは、自分たちへの当てつけだと気づきました。
みなさん。自分の間違いに気づいて、心を改め、態度を変えることができたら、どんなにいいことかと思います。
しかし、人の心は頑なであり、気づいただけでは変わりません。
彼らは、このたとえが自分たちに語られていることに気づいても、自分たちは正しく、こいつは邪魔だ、消してしまおうと、捕まえようとします。
彼らは、神を恐れず、大胆な計画をしますが、群集を恐れ、この後、ユダが裏切って、近づいて来た時に、これ幸いと、計画を実行するのです。
『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。
これは、キリストの十字架と復活、さらに聖霊降臨の出来事によって誕生する教会のことを意味しています。
彼らが捨てた石、イエス・キリストは三日目に復活しました。
復活の主は、弟子たちの前に現れたのです。
さらに、彼らの上に聖霊が降ると、彼らは力を受け、イエスはメシアであると証しながら福音を伝え、各地に、世界中に教会が建てられました。
この教会も、その一つです。
私たちの教会も、再来週、創立20年目を迎えています。
ここに教会が誕生したのも、神様がなさったことです。
今、交友誌を、20周年記念号として発行しようと、兵庫教区の諸教会から届けられた記念誌を見ながら、編集作業を進めています。
神戸栄光教会は、130年の歴史があり、こちらはわずか20年です。
しかし、されど20年、振り返ると、いろんなドラマがありました。
不思議な出会いがあり、不思議な導きがあり、今があるのです。
記録を見ると、記憶がよみがえります。
昔の写真を見れば、思い出すことがあり、記録を見て、思い出すこともあります。
今、各教会の記念誌を見ながら、各教会がどんな記録を残しているのかを調べていました。
そんな中、高砂教会の百年誌を見て、一つの記憶が蘇りました。
今、北九州の方々が7名、教会員となり、LIVE礼拝に出席されていますが、実は、30年前、私は岡先生が牧する門司港教会に行っていたのです。
私は伝道師になって2年目、初めて伝道旅行に随行した時でした。
日曜日は、福岡の伊都教会で証をし、後にH姉と結婚したK兄と出会ったことは、よく覚えているのですが、その前日、巡った教会の名前は憶えていませんでした。
実は、その一つがS姉たちがいた門司港教会だったのです。
その後、岡先生が高砂のアシュラムに来られ、説教をされた時に、ネクタイを忘れて、貸したことは、記憶に覚えていました。
先生はアシュラムに来ていた母と親しくなり、母の証を聞いて、教会に来て、証して欲しいと言われ、母は、すぐに行って、証をしたようです。
そこからS姉たちと交わりが生まれました。
母は、私のことも、この教会のことも、姉妹たちに報告し、ずっと覚えて祈ってくださり、わたしも御言葉メールを送り続けていたのです。
母が召され、先生も召されましたが、今、30年の歳月を経て、今、同じ教会員となって、LIVE礼拝を通し、一緒に礼拝を捧げているのです。
まさに、これは神様がなさったことで、本当に不思議だと思いませんか。
みなさん。神様のドラマには、伏線があります。
弟子たちは、三年間、ずっとイエス様と一緒に歩んできました。
しかし、イエス様が語られたことも、これからなさろうとしていることも、聞いているのに、理解できずにいたのです。
まして、「ホザナ」と叫んで、イエス様を迎えた群衆も、イエス様を捨て去り、殺害しようとする人たちも同じです。
主のなさること、なさったことは不思議です。
しかし、これを理解させてくださるお方がいます。
それが聖霊なる神様です。
神を信じ、主と共に歩んでいく人生には、聖霊の働きがあり、導きがあり、「そうか。そうだったのか」と悟らせてくださるのです。
大切なことは、主から離れないことです。
主から離れると、神の祝福が閉ざされ、伏線が台無しになります。
せっかく神様が準備し、備えてくれた出会いの意味がなくなります。
そこで神のドラマが停止し、枯れたイチジクのようになり、根元から腐って、良い実を結ぶことなく、切り倒されてしまうのです。
イエス様は救い主であり、人生の隅の親石であり、要の石です。
私たちの存在の基盤です。
神様のなさることは、不思議です。
今後、神様がどんな伏線を敷き、どんなドラマを用意されているのか。
神様がこれからなさることは、私たちには分かりません。
きっと不思議なことがこれからも起こるのだろうと思います。
これからも、日々、主の御言葉を黙想し、QTを生活の基本として、神を崇め、キリストに支えられ、聖霊に導かれて、共に歩みましょう。
お祈りいたします。