『謙遜を身に着けなさい』
(ペトロの手紙一 5章1節~7節)
(2024年6月9日 ベテル清水教会 聖日礼拝説教)
今朝も日ハムネタのイントロです。
二年連続最下位の日ハムは、今年、若手選手たちが成長し、活躍し、オールスターファン投票では、9人がトップに入るなど、絶好調です。
先日、ネットに「育てながら勝つ"新庄流"、徹底している準備」という記事がありました。
新庄監督は、準備することの大切さを徹底的に教えているそうです。
例えば、バッターには、打席に入る前から、狙い球を定め、一発で仕留められるように、準備し、打席に向かうこと。
野手には、飛んでくる打球を常にイメージし、一歩でも早く動けるように準備し、一球一球に集中すること。
走者には、守備位置を確認し、打球判断をイメージし、備えることなど。
試合前、試合中、練習中も、徹底的に準備の大切さを教えるそうです。
チコちゃん流で言えば、「ボーっと出てんじゃねーよ」ということです。
さらに、準備させるだけではなく、全ての選手にチャンスを与え、そのチャンスを捉えた選手たちが、今、活躍し、成績も上昇しています。
今、聖書日課は、ペトロの手紙を読んでいますが、ペトロも準備し、備えることの大切さを教えています。
新庄監督は、ある試合後のインタビューで、こう語っていました。
「努力は一生、本番は一回、チャンスは一瞬」
私たちは、神に選ばれ、救われ、神の子となり、神の国に生きる者となりました。
これは神の恵みであり、救われるための努力は必要ありませんでした。
しかし、神様が招いてくださった神の国で、神の御業を体験し、神の栄光を現す者となるためには、準備が必要であり、努力も必要なのです。
主はかつて来られ、やがて来られ、今も来られるお方です。
主が来られる時、神の御業が起こり、神の栄光が現わされます。
主は、かつて栄光を現し、やがて栄光を現し、今も現わされるのです。
だから、私たちは、その時、主の御業が成し遂げられる時を信じ、待ち望み、主の到来に備え、時を逃さぬよう、準備しておく必要があるのです。
さて、今朝は5章です。
ペトロは、教会の指導者と教会員への勧めがなされています。
5:1 さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。
5:2 あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。
ペトロは、長老の一人であり、初代教会の総監督のような存在でした。
長老は、この教会では、牧師と役員のような存在です。
宗教法人規則や日本基督教団の規則では、役員となっているのですが、
教会の役員は、会社や企業などの法人役員とは性質も身分も異なります。
ですから、教会によっては、教会規則で、役員の名称を「長老」や「執事」に変更し、呼び方を変えている教会もあります。
私が献身し、家内が洗礼を受けた高知教会は、長老派の教会です。
役員は長老と呼ばれ、牧師も長老の一人であり、牧師は、他の長老たちと一緒に、教会を管理し、牧会し、信徒のお世話をしています。
私は、24歳の時に献身し、一年間、神学校に入るための準備期間を過ごし、25歳の時に神学校に入りました。
当時の長老たちは、教会から献身者が出たことを喜んでくれました。
私のために覚えて祈り、毎月、一人1000円ずつ集め、一人の長老さんが手紙と一緒に、毎回、送ってくれていました。
強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。
まさに、この教えどおり、献身した私を支え、五年もの間、ずっとサポートし続けてくれたのです。
また、神学生時代にも、亀有教会の長老さんが、いつも心にかけ、食事に誘い、本代を下さり、とてもお世話になりました。
開拓伝道を始めた時には、別の長老が毎月、献金を捧げてくれました。
すでに天に召された方がたくさんいますが、こうした長老たちの献身的な祈りと支えによって、今の私があります。
この教会は、自ら進んで、私と共に歩み、献身的に奉仕してくださった方々がいて、今の教会があるのです。
ペトロは、神に従い、自発的に、献身的に仕える者には、神の祝福があると教えています。
実際、私も、神様に人生を捧げてから、たくさんの祝福に与りました。
自発的に、献身的に、神に仕える人には、神の報い、祝福が伴う。
そのことを、私は身を持って体験してきましたし、これからも、神に従い、神の祝福に与る者のモデルであり続けたいと願っています。
さて、ペトロは、神に従う長老たちに向かって、忠告を与えます。
これは、私に対する戒めであり、忠告であります。
5:3 ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。
5:4 そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。
当時、教会の中に、権威を振り回す人がいたようです。
それは、今も同じかもしれません。
教会を牧会する牧師の姿勢が、教会員にも影響を及ぼします。
牧師の姿勢、態度は、教会の祝福のバロメータにもなります。
ですから、ぜひ、私のためにも、執り成しお祈りください。
人間は、すぐに高慢になります。
イエス様の弟子たちも、ガリラヤの漁師でしたが、イエス様に選ばれると、誰が一番偉いのか、と思い上がり、イエス様に叱責されています。
イエス様は、彼らの心を見抜かれ、神の国で偉くなりたければ、仕える人になりなさい、と教えられたのです。
マルコ10章45節で、こう語られています。
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
人の子(イエス様)は、仕えるために来て、命を捨てられたのです。
ここに愛があります。
この愛を受け、互いに愛し合い、互いに仕え合う。
これが神様の願いなのです。
ヨハネ13章では、イエス様が弟子たちの足を洗う場面があります。
その直後、イエス様は弟子たちに、こう語っています。
13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
イエス様のリーダーシップは、仕えるリーダーシップです。
教会は、互いに足を洗い合う者、仕え合う者たちの集まりなのです。
その最高のモデルがイエス様です。
牧師はイエス様に倣い、仕える者となって、模範を示す存在です。
マタイ20章では、イエス様は、こう教えています。
20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
サーバント・リーダーシップという言葉があります。
サーバントとは、使用人、奉仕者、執事という意味です。
イエス様のリーダーシップは、サーバント・リーダーシップなのです。
ペトロは、主に倣い、このリーダーシップを持って、牧会しなさい、と教えているのです。
教会は、神に従い、自ら進んで、互いに仕え合う場所です。
主に倣い、主が仕えられたように、互いに仕え合う。
そこに神の栄光が現れ、教会は祝福されていくのです。
5:5 同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。
今日の御言葉です。
謙遜を身に着けなさい
今日のテーマです。
同じように、とは、長老たちと同じように、ということです。
長老たちは、神に従い、神に仕える教会の奉仕者です。
その姿を模範とし、あなたがたも長老に従いなさい、と教えたのです。
神に従い、仕える者は、後の日に、神の報い、神の祝福に与ります。
これがアブラハムの祝福なのです。
神に従い、神に仕えるためには、従順な心、謙遜な心が必要です。
だから、「謙遜を身に付けなさい」と教えているのです。
謙遜を身に着けるためには、御言葉と聖霊の力、助けが必要です。
従順や謙遜さは、勝手に、自然に身につくものではありません。
主の言葉に従う意志と努力も必要です。
神の恵み、魂の救いには、努力は入りません。
しかし、神の栄光を現し、神の祝福に与るためには、努力も必要です。
アブラハムは、神に選ばれ、それで終わりではありません。
アブラハムは、神に従い、義とされ、神の祝福に与ったのです。
神様は、謙遜な者に、恵みを与えて下さるお方です。
この恵みは、後から与えられる神様の報いであり、祝福です。
川の水が上流から下流へと流れるように、
雨は、天から地に降りそそぐように、
神の祝福は、神に従い、仕える者のうえに、注がれてきます。
中世の偉大な神学者にアウグスティヌスという方がいます。
ある日、弟子たちがアウグスティヌスに尋ねました。
「先生、クリスチャンが持つべき最高の姿勢は何でしょうか」と。
すると、アウグスティヌスは「一番目は謙遜です」と答えます。
二番目は、と聞かれると、「謙遜である」と答えます。
三番目は、と聞かれると、「謙遜である」と答えたのです。
弟子は、「先生、謙遜の反対は何でしょうか?」と尋ねました。
すると、「それは高慢である」と答えます。
弟子は「先生、高慢とは何でしょうか」と聞くと、
「自分が謙遜だと思うことこそが高慢である」と答えたそうです。
「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」
私たちは、気を付けないと、いつの間にか高慢になります。
高慢になると、神に従うことも、仕えることも、委ねることもできなくなります。
その結果、神の祝福が閉ざされ、流れなくなるのです。
これは、列王記を始め、イスラエルの歴史から教えられることです。
先ほど、私が献身したときの話をしました。
私のために祈り、捧げてくれた方々の姿は、祝福のモデルです。
神に従い、仕える人は、神の祝福に与る。
私は献身してから、神様の祝福をたくさん受けてきました。
神学校を卒業してから、12年間、高砂教会で奉仕し、この間も、たくさんの祝福に与りました。
その後、開拓伝道を始めたのですが、神の祝福が閉ざされました。
荒れ野を過ごし、そこで初めて、自分の高慢さに気づいたのです。
自分は、謙遜だと思っていましたが、その思いが高慢でした。
神様は、私の高慢な思いを砕き、再び、神の祝福に与ります。
アウグスチヌスが、一に謙遜、二に謙遜と語った意味が分かりました。
だから、神に祝福を受けた後には、高慢にならぬように、「調子に乗るな」と自分を戒めてきました。
今回、20周年を終え、ラブ・ソナタも祝福されました。
今、もう一度、自分に「謙遜を身に付けなさい」。調子に乗るな、と語られているのだ、と感じています。
謙遜への道、祝福の道は、QTであると確信しています。
私は、毎朝、QTを続けていますが、これが群れの模範となり、教会が祝福されるようにと、心から願っています。
QTをすれば、御言葉と聖霊によって、自分が低くされます。
5:6 だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。
5:7 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
ペトロは、思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい、と言いました。
謙遜でなければ、神に委ねることはできません。
神に委ねるためには、祈りと御言葉が必要なのです。
主の時は必ず来ます。
その時に備え、互いに謙遜を身につけ、互いに仕え合い、神に従って歩み、神に祝福に与り、みなさん一人一人が、神の祝福に与る者の模範となりますように。
御名によって祝福します。お祈りいたします。