【東大卒の庶民派「労働問題解決弁護士」ライフヒストリー】

 〜オタク弁護士「竹信航介」を創った出来事たち。

 

◆おばあちゃんといっしょ

 

 私は、1981年東京都で生まれました。

 

 私の両親はともに新聞記者でした。
 父は、私が小学生になるまでは海外、大体は中東に赴任していることが多く、その頃の父との思い出はあまりありません。

 母も同様に多忙だったため、小さい頃は母方の祖母が私の母親がわりでした。

 

 二歳ころから小児ぜんそくがひどくなり、入退院を繰り返していました。
 面会時間が終わり帰ろうとする母を見送る際、目に涙をためていても落涙することはない子どもだったそうです。
 幼い頃の私は、自分に厳しかったのかもしれません。

 

 通っていた保育園では、滑り台の順番を守らない友人たちに、順番を守るよう促していたそうです。
 他人にも厳しかったのかもしれません。

 

 

 ◆海外生活と父と野球

 かつて野球をやっていた父の影響もあるのでしょうか、物心ついたときから野球が好きでした。
 日本の小学校にいたときには、1年だけですが少年野球チームに入って汗を流していました。
 ある日チームの練習を見に、父が来てくれたことがあります。
 父は、少年野球団にありがちな「父親たちは練習のサポート、母親たちはお茶くみやお弁当などのサポート」のようなジェンダーバイアスにとらわれた習慣が嫌だったようで、他の母親たちに混ざってニコニコお茶出しをしていました。
 飄々とした人でした。

 小学校五~六年生の頃、両親がシンガポールに赴任したので、一家でシンガポールに住むことになりました。
 シンガポールは暑くなければ(あと政治的にもっと自由ならば)いいところなのですが、あの厳しい暑さには慣れることができませんでした。
 (現在北海道に在住しているのは、このとき暑さに懲りたせいもあります。)

 

 野球は続けたかったのですが、両親が海外勤務になったのを機に辞めることとなり、そのかわりシンガポールではソフトボールチームに入りました。

 

 

◆麻布中学校に入学

 

 中学入学前に帰国し、中学校は中高一貫の私立男子校(麻布中学校・高等学校)に入学しました。
 そこでは好きだった野球の部活動ではなくバレー部とオセロ部に入りました。
 理由は、バレー部は塾の先輩に、オセロ部は同級生から誘われたからです。 

 

 とはいっても、どちらの部活動でも私はゆるゆるした部員でした。
 バレー部は一年余りで退部。
 オセロ部は、後に世界チャンピオンのタイトルを獲得する先生が顧問という、恵まれた環境でしたが、その当時私には、ほかに夢中になるものがあったため、真面目にオセロに取り組む後輩に次々と棋力で追い越されるような状態でした。 

 

 当時(というか今もですが)、私が夢中になっていたものはアニメと声優とゲームでした。
 とくに声優の出ているラジオ(アニラジと呼ばれていた)にはまってしまい、夜ふかし癖がついていました。

 

 中学校の修学旅行も、いつも聞いているラジオが少しでも聞けるようにと、東京に近い行き先である佐渡を選びました。
 とはいえさすがに東京のラジオ局の電波を佐渡で受信するのは難しく、宿泊先では電波をとらえるために必死で携帯ラジオを傾けていました。
 そのとき横では友人たちがスーパーファミコンで遊んでいたのですが、私が必死にラジオに集中しているときに声をかけられ思わず、「うるさい!」と一喝してしまいました。
 このときの普段と全く違う強気な態度は、中高時代の友人の間では今でも語り草になっています。

 

 麻布中高は、とても良い学校でした。
 いろいろな意味で、最高の環境といっても過言でありません。
 ただ一点のことをのぞいては……。

 

 

◆  「理性的に考える」私がモテるためにした努力と挫折

 

 私にとって中高での最大の不満は、女子がいなかったことです。
 男子校なので、当然ですが。
 小学生の頃から恋愛に興味を持っていた私は、女子がいない学校生活に不満を抱えていました。
 かといって、近所の女子校にナンパに行くような積極性はありません。

 

 バレーボール部を一年で辞めた後、私は「もっと理性的に考える人間になろう」と思い、オセロ部と兼部する形で、討論部に入部していました。
 そのおかげか、理性的思考を尊んだ私は高校生の頃には、この件について次のように考えました。
 「今は自分の人格を陶冶し聖人君子に近づき、大学生になったら男女交際を実現しよう」。
 大学に入れば、女子がいるキャンパスライフが待っている、そんな環境で聖人君子たることができれば、当然のごとく私にもガールフレンドができるに決まっている。
 今思えば、聖人君子であることとモテることとは無関係ですし、いかにモテる人であっても男女交際を実現することはとても大変なことなのですが、当時の私は愚かにも、そう信じて疑うことがなかったのです。

 

 一浪の末、東京大学(教養学部前期課程文科一類)に入学しました。

 

 さあ晴れて、男女交際を実現しようと意気込んでいたのですが、クラスの女子にはふられ、四つ入ったサークルで同級生に女子は合わせてわずか一人など、その期待は裏切られっぱなしでした。 


 今思えば、恋愛に憧れ度マックスの私は挙動不審で、女子の同級生からは警戒されていたのでしょう。
 女子にモテないことに悩んだ私は、混迷を深めていきました。

 

「彼女を作るためには、『自信のある男』になればいいのではないか。
 『自信のある男』になるためには、自分の足りない部分を埋めればいい。
 私に足りない部分は、彼女ができないことだ。
 だとしたら、『自信のある男』になって彼女を作るためには、彼女を作ればいい???」

 

 それはともかく、私は傷心を麻酔する何かを求めて、ゲームを上達すれば達成感が得られることに期待して、この頃からそれまで以上にゲームに勤しむようになりました。
 おかげで特定のゲームはそれなりに上達しましたが、恋愛の悩みを解決することには当然ながら全く役立ちませんでした。

 学業不振や生活リズムの乱れもあいまって、大学生活は孤独で苦しいものでした。
 わずかな貴重な友人と、司法試験予備校(とゲーム)だけが生活の支えでした。

 

 

◆  父との別れ

 

 大学4年のとき、父が旅先で亡くなりました。
 母と二人でバカンスに行ったマレーシアの海での出来事でした。

 知らせを受けた私は、急遽叔父とともに現地へ向かい、現地で葬儀を済ませました。
 私は大学に入ってからますます父にいろいろと相談することが増えていたので、ショックは大きかったですが、他方で母は生きていてよかった、とも思いました。

 

 父はマイペースに生きているという印象の人でした。
 中高生で漢文を習ったときに、老子の生き方が父の姿にかぶった覚えがあります。 

 

 母親がわりをしてくれていた祖母は、私が中学生の頃に他界していました。

そして父も旅立ってしまいました。 

 

 私と母は、二人きりの家族になりました。

 

 大学生だった私はまだ一人で生きていける状態ではありませんでした。
 独り立ちしなければ、との思いを強くしましたが、父との突然の別離の後にあった司法試験も合格には程遠い結果でした。
 ジャーナリストの母は「世界の半分をなくした人間が、ヤケクソで書きつづった、ヤケクソな自己観察記録」として、著書「ミボージン日記」で父の喪失を整理しています。

 

 

 

◆北海道へ単身移住

 

 ロースクールを北海道大学に選んだのは、オセロ友達が北海道大学のロースクールに在籍していたからでした。
 オセロを続けていなければ、現在、北海道にいることはなかったかもしれません。
 人生の道筋の一つ一つも、オセロの一手一手のように連なっているような気がします。

 

 北海道での初めての一人暮らしでは、テレビをおかず、授業では最前列に座って積極的に質問し、ロースクールの自習室で夜まで勉強し、それなりに真面目に勉強することができました。
 そのかたわら、ロースクールからの帰りに毎日のようにゲーセンに寄ってゲームの練習にも励み、札幌のオセロ大会にも欠かさず出場し、なんだかんだ学生生活をエンジョイしていました。

 

 ただ相変わらず、モテる気配はありませんでした。
 ロースクールにはもちろん女子もいたのですが、恋愛成就にいたったことはなく、楽しげなカップルを横目で眺めながら、いい年をして恋に恋し続ける学生生活でもありました。
 


◆やっと到来したモテ期(ただし1人のみ)

 

 司法試験に無事合格し、縁あって札幌の法律事務所が弁護士として採用してくれることになり、法曹の道を歩みだしました。
 ある日、お世話になっていた弁護士から、「つきあっている人はいるの?」と聞かれました。

 そんな人はいるはずもありません。「いません。」と答えたところ、半ばお見合いのような感じで一人の女性を紹介されました。

 それが現在の妻なのですが、相変わらず私は挙動不審だったはずで、私の何を気に入って結婚してくれたのかいまだによくわかりません。

 

 恋愛偏差値が低く、恋愛に関しては連戦連敗であった私が、最終的に妻と出会って結婚できたことは、奇跡的な快挙で、運が良かったというほかありません。
 今はただ、妻に日々感謝を捧げるのみです。

 

 

◆  そもそもなぜ弁護士になったのか

 

 大学のクラスには司法試験を志す同級生がたくさんいました。
 会社員には向かないと親に言われていたこともありました。
 なぜ法学を志したのか? と訊かれれば、最初はそんなきっかけでした。

 

 とはいえ、法学入門で習った三菱樹脂事件の最高裁の判断には憤りを覚えました。
 また、新聞を読んでいて、「うちは労働基準法やってないから」とワンマン社長に言い放たれた労働者の話が出てきたときも、とても怒りを覚えました。

 

 怒りを覚えるポイントは、その人の人格の重要なポイントだと思います。
 今考えると、私は労働者の権利と法を露骨にないがしろにする無法な人間に怒りを覚えたわけで、法や権利によって権力を制限するということを、心の底から大事なことだと思っているということがわかります。 

 

 私の母は女性の人権や労働問題に関して長年ジャーナリストとして取り組んできました。
 私が労働問題に関して、強い思いに至るようになったのは、母のDNAもあるのかもしれません。

 

 

◆  そして労働問題に本格的に取り組む

 

 最初に就職した事務所に2年勤めて、独立することになりました。
 そこで、勉強のためにもいろいろな法律事務所に話を聞きに行きました。
 その中で、代表が私と同じく千葉ロッテマリーンズファンという縁で、今の事務所に席を置かせてもらえることになり、2013年に移籍しました。
 複数弁護士所属の事務所ですが、それぞれの弁護士が自由に仕事をしているので、独立しているような形になります。

 独立したタイミングで、前からお世話になっていた労働事件を多く扱っている弁護士から、一緒にある労働事件を担当しないか、というお誘いを受けました。
 労働事件は、ロースクールの時に新聞で読んで怒りを覚えた分野です。
 そんなわけで関心のある、自分の人格の核に近い分野だったので、これを機に労働事件について深く勉強することになりました。


 もちろん、どんな事件でも労働者側がいつでも正しく、使用者が悪者とは限りません。
 労働者の味方とはいっても、無理無法を通すことはできません。 

 

 すべて個人の人権は尊重されなくてはなりません。
 自由と平等は法によって保障されています。
 法の下において私たちはみな平等なのです。
 そこに格差があってはならず、すべての人が豊かに生き生きと生活を営める社会である必要があります。
 そのために弁護士という法の専門家がいるのです。 

 

 弁護士として働く今、この理念が私の柱になっています。

 

 

 

 

弁護士 竹信航介(札幌弁護士会所属)

 

趣味:オセロ(四段、元北海道名人)・ゲーム(beatmaniaIIDXSP元中伝)・アニメ(主に声優)・野球観戦・読書

 

ご相談者からの感想:

「どの弁護士よりも親身に相談に乗ってくれた」

「今まで会った弁護士さんの中で一番良かった」

「不安が消えました」

 

得意分野:労働関係(解雇、残業代含む給料未払い、ハラスメント、労災等)

 

 

 

●  弁護士ドットコム 
URL:https://www.bengo4.com/hokkaido/a_01100/g_01101/l_136789/

 

●  札幌アカシヤ法律事務所
URL:http://www.akashiya-law.jp

初回無料相談。二回目からは5500円。

 

●  竹信航介YouTubeチャンネル 
URL:https://www.youtube.com/channel/UCgMd3DixKjvHNoHDwGvXNYg/featured?view_as=subscriber

 

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