涙がでる。がんばらなくちゃ | 神戸 三宮バー カクテルが美味しい BARSAKAI

涙がでる。がんばらなくちゃ

『だから弱い生き物である人間は
犯人となるべき誰かを探してしまう!
怒りの矛先を向ける相手を探そうとしてしまう!』

『地震とは人類の不摂生がもたらすものとは性質が違い
地球という惑星が起こす自然現象である!
地球が安全な球体であろうとするために
自らを調整する地殻作用である!
しかしながら人類にとっての地震は
「犯人なき大量殺人」に過ぎない!
だから!
だから弱い生き物である人間は
犯人となるべき誰かを探してしまう!
怒りの矛先を向ける相手を探そうとしてしまう!
それは対応の遅い政府だとか
不確かな報道だとか
インターネットにおける誤報だったりする!
挙げ句はアナウンサーの背後で手を振る無邪気な高校生に
何らかの怒りを向けようと流れる!

それらは全て間違っている!』
こうした人間の心理があることを否定しないで、自分の中にも存在することみとめることです。
また、これを他の人に投射して他の人を批判することにならないように。

一般にだれかが間違っていると思うとき、
わたしの中には、いろんな思いが渦巻いています。

少なくとも犯人捜しをしたがるときには、「怒り」があります。
その原因が、だれにあるのか、
わたしにあるのか、相手にあるのか、それとも他のだれかや社会にあるのか、
ほとんどの場合、だれかひとりの責任ではないし、
わたしの中にも、責任の一端があることをうすうす気づいています。

自分の責任を認めたくなくて、相手のせいにしたがるのが「投射」という防衛機制ですが、
これが働くとき、わたしの方にはいろんな事情がありますが、
あいてに対しては、そうは思いません。

あいては、単純に一つの考え方しかできない存在だと見るのです。
いろんな感情を持つ人としてみないで、単なる対象の一つになってしまいます。

「あいつは、そういう考え方しかしないやつなんだ」
そんなとき、
わたしは、あいつがきらいだと感じます。

その人が言っていることは「まったく理解できない」と感じます。
「どうしてそんな考え方が出来るの?」
「どうして『わたしが』考えるように思えないのだろう?」

そこには、『わたしが』考える基準が存在するのです。

もし、わたしが『わたしが』考える基準に違反したら、厳しく非難することになります。
わたしの中に、それを許さない自分がいるのです。

そして、それを相手にも適用します。
わたしが、自分に許さないのと同じように、相手もそのようであってはならないのです。

わたしが、ダメだと思ってやっていないことを、平気でやってしまう相手が許せない。

しかし、わたしの考えが、もしかしたら絶対ではないと思えるときが来たら、
わたしが、わたしに厳しく禁止していることに気がついたら、
じつは、わたしの中にも、彼のように自由に振る舞いたいと感じている自分がいることに気がついたら、

そのとき、わたしはその束縛から解放されます。

そして、わたしが自分を束縛しなくなれば、
あいてを批判する自分もいなくなります。

相手の行動を許せるし、わたしが同じことをするのも許せるようになり

話題を最初に戻しますと、
地震のような、誰にも怒りを向けられないものに直面したとき、
やり場のない怒りを、誰かに向けたくなるのです。

そんなとき、標的をさがすのは、わたしの中のうまく制御できないでいる自分なのです。

わたしの中で、普段から葛藤を起こしている部分、
「こんなことではダメだ!」と叱る自分と、
「そんなこと知るか!」と言いたいけれど押さえつけられている自分が葛藤を起こしています。

怒りは、この葛藤を無視して暴走します。
このときとばかり、自分以外の人に怒りをぶつけたくなるのです。

まずは、自分を許すこと。
それによって、まわりの人を犯人にしようとしたがる自分も消えていきます。

それでも、あまりにも理不尽な出来事による怒りは、
なかなか許すことを拒絶します。

それには時間がかかるかもしれませんが、
しかし、
いつかは、
自分を許さないと、永遠に犯人を作り続けなければなりません。

いつかは、怒り続けるわたしに、さよならを言わないといけないのです。