バリー・ロングの教え

バリー・ロングの教え

バリー・ロング(Barry Long: 1926 – 2003)著作の「死するは恐れのみ」(Only Fear Dies)の第2章を日本語に訳しました。

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生まれたときから蓄積されてきた「感情体」を取り除くことは大きな試みです。その難しさは人それぞれです。真実の言葉を少し聞いただけで全体の理念を会得する人もいます。その人は直ちにやるべきことに気付き、もの凄い開放感と新たな可能性を覚え、それに取り掛かります。

 

まず最初は、自分の中にある「感情体」の存在を感じられなければなりません。感じることが出来なければ、対応し始めることは出来ません。

 

あなたが怒ったり、落ち込んだりしている時、「感情体」は激しく活発な状態なので、あなたが「感情体」から分離することはおそらく無理です。それと同一化してしまい、吸収され、自分を見失ってしまいます。なので、「感情体」が休眠状態にあり、あなたが平常である時からそれを見極めるようにしなければなりません。

 

「感情体」の表面は、目を閉じて、意識の注意をお腹のあたりの気持ち・感覚に集中させることで感じることが出来ます。これは、体の中の実際の気持ち、身体的感覚を感じ取るという意味です。では、目を閉じて感じてください。

 

 

その感覚をはっきり認識することは、正しい瞑想の実施を通して十分に静寂になっていなければ、難しいでしょう。しかし、「やろうとする」ことをしなければ、その感覚はいずれ感じるようになります。(全ての瞑想が正しいわけではありません。正しい瞑想においては、心は静寂にあり、意識の注意はあなたが感じている現実、「在る」現実と一体になります。)

 

あなたの気分や落ち込みは全て、その感覚を通して、潜在意識より浮上してきます。誰かと言い争いになった後、ストレスの気持ちはまずお腹・へそのあたりで感じられます。しかし、そのストレスはすぐさま心臓、胸や喉を中心に体全体へと広がり、やがて頭まで達すると、頭痛・疲労・混迷といった注意を散らす反応を引き起こします。

 

「感情体」はあなたと同様に生きており、知性があるということを忘れないでください。正体を見破られ、あなたとは別のものとして見られることを免れるため、あなたの注意を散らそうとします。そして、多くの場合それに成功します。その方法の一つとして、あなたの体の他の部分にうずきや痛みを及ぼすことがあります。「感情体」はこれらを一時間ほどしか持久させる力がないので、長続きはしないものの、時おりうずきや痛みを再発させます。しかし、あなたの注意を散らすための第一の方法は、思考させることです。思考させることさえ出来れば、あなたが自分のお腹の中にある不幸、「感情体」の真相を極めることはありません。

 

あなたの怠慢と無知により、不幸な「感情体」はあなたの内的自己と潜在意識を大いに取り仕切るに至った、ということをを理解しなければなりません。「感情体」は降参することはありません。あなたが自ら入っていき、意識的に、実感を通して根絶しなければならないのです。

 

「感情体」を取り除くことは、「今」行動が要求されます。行動はいつでも「今」というこの刹那からスタートしなければなりません。この段落を最後まで読んだら一度止まって、目を瞑って自分の内面を静寂にしてください。お腹のあたりの気持ち・身体感覚を感じてください。

 

 

あなたが感じている感覚そのものが「それ」です。

 

それは、あなたの体の中の不幸な住居者として居続ける感情です。あなたが動揺していない時は、無害でとても普通なものと思うかもしれません。しかし、平常心を失うとそれは強烈な気持ちとなり、悩むことなど、その気持ちの不快に集中すること以外の行為への衝動に取り憑かれます。

 

もし今、自分の気持ちを感じ取れないのであれば、それはまだ静寂さが足りないということを意味します。正しく瞑想することを学ばない限り、本当の進歩は得られないでしょう。その際も、即時に行動を起こすことが要求されます。正しい瞑想を学んでください。(私の他の書作本が役に立つでしょう。)

 

感覚に集中しているとき、自分がしていることについて考えてはいけません。ただやりなさい。考えることは、未来や過去へ投射することであり、注意を散らすことです。「感情体」自体があなたを考えさせます。それは、あなたが考えている間は、「感情体」を破壊できる唯一のエネルギーを散乱している、と分かっているからです。つまり、「感情体」があなたの意識の注意を散らしているのです。

 

実感をもって見極めなさい。

 

これは、感覚を意識で捉えることで成し遂げることが出来ます。そこにあるものを知覚し、感じ取りなさい。結論を出してはいけません。結論は考えることであり、見極めることではありません。

 

このようにして実感をもって見極めることは、名称をつけることなく「あるがまま」を見出して知ることです。人々にとって、この過程の美しい単純性と効力を理解することはとても困難です。それは人々の「感情体」が複雑だからです。まっすぐ見極めることが出来ないので、はっきり知覚出来ないのです。問題だけを見出し、目の前にある単純な解決手段を見落としてしまいます。

 

ここにおける単純な真理は、「あなたの意識の注意が自らの気持ちに集中されれば、その気持ちにある不実は破壊される」ということがです。あなたの内にある不実とは痛みへと変わる感情・不幸なので、それが徐々に取り除かれ、破壊されます。残ったものが真実です。それは歓喜・自然・活気に満ちた自己、幸せの体です。あなたの内ではそれのみが真であり、それは破壊されることはありません。

 

不実が破壊されていくと、活気が感じられてきます。

 

では、この過程の実践的なところをもう一度確かめた上で、そのさらに先の部分も見てみましょう。たとえ平穏な時でも、激しい口論をして興奮している時でも、(そして、この本の内容に苛立ちや怒りを感じた時は特に)座ってから内側の意識をへそのあたりの気持ちに集中し、そこに保ちます。

 

その気持ちを捉えたら、そこへ沈んでいきます。それは、回転する円盤の如く、勢いであなたを振り落とそうとするでしょう。それでも、ただそこにいなさい。自分の意識をそこへ下ろしていきます。その気持ち・感覚になりきります。しかし、思考してはいけません。

 

ただ静寂にあることでこれが果たされます。静寂こそが、あなたの内に潜む決して只者ではない相手に対する唯一の頼りなのです。

 

為す術はより静寂に近づくことです。

 

蓄積された不満・苦しみ・不穏を取り去る力は、知覚の静けさと、思考や囚われのない意識の気づきにだけあります。その中に入っていき、貫き通すことが出来るのは、静寂だけです。

 

これを実施していくと、あなたは痛み・恐れ・懐疑を経験し、危機感を覚えるでしょう。これらは古く隠された感情が浮上してきているものであり、向き合うことで取り除かれていきます。「感情体」はもがき、ぼやき、泣き、痛み、あなたの体を通して叫ぼうとします。あなたを逃げさるためには、手段を問いません。あなたの焼けつく意識の注意を逸らそうと、あなたを立ち上がらせ、動き回らせ、飲み食べさせ、外出させます。あなたか私の気が狂っていると思わせ、あなたを諦めさせ、「これは無意味だ」と言わせます。それでも、耐え忍ばなければなりません。

 

可能な限り体を静寂に保たなければなりません。動かなければならなくなったら、十分間でも休憩してください。そして、もう一度座って続行します。諦めてはなりません。

 

体を静寂に保つというのは、抑圧することではありません。こういった時にあなたの体を動かすのは、追い詰められた感情です。感情そのものを保持すれば、感情はあなたの体を動かす力を失います。感情は、あなたの意識が向けられている間は、動くことは出来ないのです。

 

「感情体」は生きているものですが、寄生生物のように、あなたに巣食っています。それは死にたくはありません。しかし、あなたによって消し去られるのです。あなたの「今」の意識により、あなたの痛々しい孤独の「過去」が抹殺されます。

 

現実は「今」のみです。

 

苦しくなった時には、善・真実・正しさを「今」保つことを忘れないでください。現実は「今」のみです。

 

命の真理に近づいていくと、「感情体」は「死のトンネル」の中を潜り抜けていきます。これは、しばらくの間は辛いことでしょう。いずれは誰もが「死のトンネル」を意識的に、あるいは無意識に、潜り抜けなければばりません。誰もが自らの抵抗を通り抜けなければなりません。その抵抗とは、蓄積された感情状態、憎しみ、恨み、短気、思考、願い、労苦といった、「感情体」の重苦しい構成物です。「地獄」という観念は、ここから来ています。あなたが自身の「地獄」を作っているのです。そして、自分の内へと入っていくと、自分の作ったものと会わなければなりません。しかし、恐れることはありません。それは、「感情体」というあなたが取り入れた無知にすぎないのです。

 

「地獄」に対する対応法は静寂に「在る」ことです。あなたの過去の無知である「地獄」は、あなたの「在る」ことの静寂さに耐えることは出来ません。死の時が訪れたら、ただ静寂にその場にいなさい。どんなに苦しい死であろうと、あなたはそれを切り抜けることが出来ます。