「主権を奪った」?


李氏朝鮮は清の属国であった為、

もともと主権など存在していない。

朝鮮が独立し欧米列強の侵略に対抗することを望んだ日本と、それを望まない清との間に起きたのが”日清戦争(1894~1895)”なのである。

日本が勝利し、清と結んだ講和条約の第1条の中で朝鮮の独立が明確に記されている。


ところが露、独、仏の三国による干渉で、遼東半島を放棄を日本が強いられると

国内改革によって権力を奪われつつあった国王・高宗は露と組んで巻き返しをはかった。

朝鮮国内の親日・改革派を葬り、馬山に露の海軍基地が建設され日本が

露の脅威に晒される事態にに直面した。

これが日露戦争の開戦のきっかけとなったんだ。


一方、大韓帝国内では李容九 イ・ヨングが「一進会」を結成し、日本との一体化が朝鮮を救う道であると民衆に説いた。


1905年 明治38年 日本は日露戦争に勝利する。


李容九 イ・ヨングは一進会100万人会員の名前で全国民への合邦(がっぽう)

声明書を発表。さらに韓国皇帝、會彌統監(朝鮮人、資料無し。後に更迭された) 李完用(イ・ワニョン)首相に対して「日韓合邦」の嘆願書を提出した。


詳細は省くが、この時期に伊藤博文が安重根によって暗殺されている。

伊藤の死をうけ皇帝・高宗は

「公(伊藤のこと)の遺骨を長白山に埋めたい。じつに公は我が国の慈父である」と若林警視総監に語っていた。



1910年 「日韓併合に関する条約」が締結された。



※条文は1~8まであるが割愛する

第1条 

韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与す

第2条 

日本国皇帝陛下は前条に掲けたる譲与を受諾し且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す

第3条 

日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其の后妃及後裔をして各其の地位に応し相当なる尊称威厳及名誉を享有せしめ且之を保持するに十分なる歳費を供給すへきことを約す(前記事で紹介した費用の事を述べている)


(中略)


第8条 本条約は日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下の裁可を経たるものにして公布の日より之を施行す

 右証拠として両全権委員は本条約に記名調印するものなり

明治43年8月22日 統監子爵    寺内正毅

隆煕4年8月22日 内閣総理大臣  李完用



で、話は現在に戻る。


韓国内や日本国内の”お花畑”な左翼連中は

「署名は(朝鮮の)外務大臣だけで皇帝の署名がないニダ!日本が一方的に出した条約だから無効ニダ!」と騒いでいるのだが、



2001年にハーバード大学アジアセンター主催で開かれた韓国併合再検討国際会議において韓国併合の合法性が論議された。

韓国や北朝鮮の学者は無効・違法論を展開したが、欧米の国際法学者らからはまったく受け入れられなかった。


英ケンブリッジ大学のJ・クロフォード教授(国際法)は

「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、

日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかった 」とし、


また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦1914年 - 1918年)以降のもので当時としては問題になるものではない」と反論されたほか、併合条約に

国王の署名や批准がなかったことについても、国際法上必ずしも必要なものではない

とする見解が英国の学者らから出された。


またこの会議では、朝鮮学会原田環から、併合条約に先立ち日本が外交権を掌握し韓国を保護国にした日韓保護条約1905年)について、皇帝(国王)の日記など韓国側資料の「日省録」や「承政院日記」などを分析し、

高宗皇帝は日韓保護条約に賛成しており、批判的だった大臣たちの意見を却下していた

とする見解を新たに紹介している


wikiよりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88%E3%83%8B%E9%96%A2%E3%82%B9%E3%83%AB%E6%9D%A1%E7%B4%84




(´・ω・`) だが、この日韓併合が後に 太平洋戦争のトリガーになろうとは誰も予測できなかったんだよな・・・・・・