⭕️丑寅日本国の歴史〜大鰐&弘前巡りの続き
前記事ブログのつづきでかたりべ玉川宏氏から聴いた話16※東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)を51年研究している玉川宏氏のお話をブログ記事用に編集して連載しています📝本日のブログ記事は前回に引き続き玉川氏の故郷大鰐市にある神社仏閣を巡り🚶➡️弘前城のお花見と🏯赤湯温泉を堪能した♨️2026年4/18に聴いたお話になります🗓️大鰐市の熊野神社をご案内いただきました💁♂️元はここもアラハバキ神社だったそうです⛩️敷地内には観音堂のお社もあり津軽では観音信仰も熱心なことを玉川氏は話してくれました🗣️その後前回のブログ記事内容を移動する車の中で学び茶臼山公園茶臼館展望台へ移動して🚗☝️展望台は赤湯温泉で有名な大鰐市内が一望出来、岩木山も見える絶景スポットでした😍☝️昇り龍と下り龍もいらっしゃいました🐉☝️大鰐名物は茶臼餅💓食べました😋名物大鰐もやしは「昼食に大鰐もやし味噌ラーメン」でいただきました🍜👇ここで玉川氏の解説👨🏫⇩聖武天皇は752年の大仏開眼の時一代前の天皇になります。聖武天皇には子供はなかったので光明皇后の連れ子が孝謙天皇になります👑奈良の大仏開眼式では孝謙天皇の計らいで宮城県石巻市牡鹿半島の金をプレゼントされ752年に開催することが出来たのです🎁(宮城県石巻市はわたしの地元です🙋♀️)その時倭国は《50年間は東北を攻めて行かない》ことを約束しました🎀約束されたので牡鹿半島から金をプレゼントしたのにそれからは…遥かに今までよりも東北を攻めてくるようになり⚔️約束は守られなかったという史実があるのです😤倭国という国はそのような人たちが住んでいる国だったそうです😢次に伺った大鰐市にある真言宗大圓寺は現在、大日如来が国指定の文化財ですが1,000年前は阿弥陀仏で中尊寺だったそうです😱1,000年前当時は衣川の中尊寺は仏頂寺で中尊寺は大鰐市にありました😳ですが戦でどちらも焼けてしまい🔥その後再建した時に衣川の方が(いまだに)中尊寺になり大鰐の方が大圓寺になりました🔁大圓寺も弘前に移ったりまた大鰐へ戻ってきたりと大圓寺の歴史もいろいろ変わるのです🔄1,000年前の中尊寺であった現在の大圓寺も元はアラハバキ神社だったので三つ巴の神紋があります🔍大圓寺の先代の和尚は玉川氏と幼稚園の頃からの同級生で、さらにこちらの大圓寺で玉川氏は仏前結婚式を挙げたというとてもご縁の深いお寺なのです🤵♀️🤵(こちらは玉川氏の母の実家と祖母の菩提寺ですが玉川家は違う宗派なのです。)お堂の中、正面にいらっしゃるのは阿弥陀仏様で大日如来ではないと断言する玉川氏👨🏫⬆️美しく整えられている大圓寺✨おすすめスポットです❣️次は大鰐町大字蔵舘字神岡へ移動します🚗(町の名前に驚き😳)かつてリンゴの木が並んでいたという玉川氏母実家と畑跡地には現在水仙が美しくこじんまりと咲いていました🌼目の前には小さな林があり小さなお社と環状列石⁉️と髙伯寺遺跡と書かれた塔が建っていました‼️👇☝️ここは大圓寺だった時もあるそうです。1,000年も前のことですから宗派もお寺も変わっているのです⌛️大鰐市にある阿闍羅山(あじゃらやま)は三代目の王様である阿闍羅彦王が住んでいて日本国(ひのもとのくに)の都を創りました🫅阿闍羅山から北極星を眺める位置にこちらの神岡にある大伯寺遺跡があります⭐️玉川氏が幼い頃母の実家で遊び、家族みんなで畑仕事の合間にお昼を食べていた場所は(湧水が出ていた)神社(蔵舘大明神)でした⛩️(全国にある大明神はすべてアラハバキ神社でした)※阿闍羅山はスキー場でアルペンコースがあり⛷️82歳の玉川氏ですが同年代で子供の頃からスキーの道具を買ってもらってスキーをしていたのは青森県内でも大鰐だけだそうです😁小1の頃から滑っていた玉川氏🏫😎ここは何万年前からの聖地だったはず💫と語る玉川氏👨🏫納得のパワーを感じます🧐善知鳥(うとう)村だった現在の青森県庁所在地🍎国立大学が県庁所在地にないのは青森県と長野県だけだとか👨🎓👩🎓弘前大学を弘前市から青森市に移そうとしたことがあったそうです🎓明治22年に30の市ができました。江戸時代の城下町は320あり東京を入れて31が市になったそうです。100万石の金沢、62万石の仙台と10万石の弘前ですが同時期に市になりました㊗️(弘前市は16番目だったそうです👏)金剛山最勝院に向かいます🚗ここには五重の塔がありお堂には全部の観音様がいらっしゃって、うさぎを祀っています🐰(弘前藩緖宗筆頭・寺格第一位)津軽では生まれ年12干支で守り本山があり、善知鳥神社では12干支ぜんぶ受け持っているのでぜんぶ祀られているそうです😄☝️五重の塔が東北にあるのは珍しいのです✨弘前市内の神社仏閣を造ったのは堀江佐吉氏で(立派でとても大きな石碑があり功績が称えられていました🥇)南津軽郡の神社仏閣を造ったのは玉川長吉氏でした。(玉川氏のひいおじいちゃん)※弘前大学附属中学校へ通い始めた玉川氏の隣の席に座っていたとても可愛い女の子は、堀江佐吉氏のひ孫だったそうです🫢ご先祖様も子孫(ひ孫同士)もご縁がつながります🤝東日流外三郡誌の偽書派の人たちが存在しないと言っている人たち(和田家の先祖)を確認するために古賀さん(東日流外三郡誌の逆襲共同執筆代表者)から頼まれて和田家を確認する際、津軽の総元締めみたいなここはお寺なので昨年調べに来たことが玉川氏は、あるそうです📖(和尚に古文書を見せてもらったそうです)江戸時代にそのような役割も果たしていた格式高いお寺なのです✨弘前市の指標は『卍』です‼️‼️弘前市出身の藤田さんは東京の商工会議所の初代会長で、その方が残した庭園が弘前城の前にあります。庭園の中の珈琲館はアップルパイが名物です🍎(玉川氏は東京からお越しの方をお連れするそうです)弘前城内で演奏されていた津軽三味線🪕音楽も楽器も🎼西洋の文明文化は津軽には早く入ってきていたのでいろんなものの発祥地になっています🎂☝️津軽三味線をBGMにして玉川氏のお話を聴きました👂西洋文化は津軽には何千年も前から入ってきていました。大陸と交流してつながっていた津軽という場所は最先地だったのです。大陸からの帰化人はとても多くて秋田小町はクォーターなのです。(色の白さと彫りの深さ、優秀さ、大きなカラダも混血だからです)なので津軽の人は相撲も強かったそうです❤️🔥青い目や赤い毛とかそういう子供たちがたくさんいた時代もありましたが差別はなかったのです💖日本国(ひのもとのくに)国是=国家の方針【人の上に人を造らず人の下に人を造らず】このようにとても素晴らしい津軽には文明文化があり価値ある場所柄なのです🌸サンスクリット語にあるタブー、カルマ、サイキックこれも津軽弁です🫢津軽の一月元旦360度、雪で白一色の銀世界に太陽が昇るのをシンボルにした旗が白地(雪の世界)に赤(太陽)の日章旗なのです🇯🇵弘前城の中には護国神社もあり参拝させていただきました🙏👇役小角の1番弟子(唐小摩)が大師役行者一代記を書き残してくれたおかげで歴史民族資料館に縄文土器飾られている中に一代記があったのを玉川氏は発見し💡(役行者のファンの玉川氏は見逃しませんでした‼️)欠落していたページ部分までご縁があって見つかるという奇跡のような出来事が玉川氏に起こります。(そこで学びを深めた玉川氏)わたしが宮城県石巻から来たので玉川氏は石巻市の歴史も話してくれました♡👇伊達政宗だけが徳川家康から外国まで行く大船を造ることを許されました🌏でも能力ある船大工、航海するための技術を持ち合わせていない為に祖父の時代に日本一の海運をしていた安倍安東一族を頼って安倍家にお願いして船大工もすべて船の操縦士や乗組員までも徳川家には氣付かれないように安倍家の家臣をみんなまるがかいをしてメキシコアカプルコまで行く大船を造り向かうのです🛳️陸路でメキシコ湾に出ないといけないのでそこにスペインの船が待ち構えていて支倉常長をスペインまで連れて行くのです。帰りも同じところを通ります。なので2年くらいメキシコで待っていたほど…行きは北極圏に近い方を周りカナダアメリカ経由でメキシコへ行き帰りはメキシコからさらに南下して赤道付近を通りフィリピンの方を通りそして日本に戻ってくる。でもフィリピンで伊達政宗はもう徳川家をてんぷくすることは無理だからスペインから世界最先端の武器を輸入してきているのがバレたらお家断絶になり殺されるのでアメリカから来る船をマニラで待ち構えて上陸させずに追波湾まで誘導しせっかくの荷物を爆破させるのです😵そのような話も造った船の構造までも図面もぜんぶ東日流外三郡誌には書かれているのです✍️そういう消されてしまったと思っている丑寅日本国の歴史が東日流外三郡誌に語り部のおかげで残っています✍️玉川氏は若い人たちに期待していると語ります。これらのことが解明されてビッグニュースになることもあると思っているからです。☝️こちらは玉川氏が準備してくれた資料です📝3,600年もかけて太陽を一周する惑星ニビルが地球に宇宙船で降りてきて次帰るのは3,600年後になるわけですがニビル星人にとって3,600年はたったの1年だというのです🫨太陽を一周する時間って惑星に住んでいる人の年齢なのです。時間はものすごく多様性があり信じられないような仕組みがあるのです。釈迦もキリストも過去があって現在があって未来があり時間は直線で流れているという説に対してそういうものではなく過去も現在も未来も同時にあると言っています⌛️⏳福澤諭吉は津軽の教えを「天は人の上に人を造らず…で」学問のすすめに書きました。フランスやアメリカから仕入れたネタではないのです。でも五所川原の和田すえきちに『これは絶対でどこを明らかにしないでください』と頼まれました。なぜそういうことを頼んだかというと『みんなが神様だと思っている神武天皇の悪口をたくさん書いてあるから(くわせもの)平和に暮らしている耶馬台国を力づくで侵略して奪ったとんでもない男だと書いているので』そういうことを世の中に認められるわけがない為に口止めしたのです。東日流外三郡誌には悪役として神武天皇は書かれています✍️それで和田すえきちはそれを世に出すとでたらめにされて消されてしまうから命も消されるかもしれないから『絶対内緒にしてください』と約束してもらいます。なので最後に『いえり』=言うことが出来るとか、案に自分の考えではなくてここから仕入れたということをれいじしているけれども福澤諭吉は和田すえきちとの約束を守ったのです💝福澤諭吉と和田すえきちは東京赤坂で明治4年か5年に自由民権運動についてあおりそそのかしの街頭演説会を二人でしていました。これも東日流外三郡誌に書かれているのです。そうしたら警察に追われて福澤諭吉は逃げきり、和田すえきちは警察に捕まり88日間臭い飯を食わされるのです👮みはる藩の藩主が上層部に顔がきいてようやく警察から保釈された、ここまで書かれています✍️日本国(ひのもとのくに)の国是は過去から現在に至るまでどこにも例がないのです。だから世界記憶遺産には相応しい東日流外三郡誌だと思っていると語る玉川氏👨🏫前日玉川氏は浪岡でお話会をしたこともあり浪岡の話をしてくれました🎤👇浪岡八幡宮は後醍醐天皇の時代に大納言をした北畠その人たちの御所とかがありました。その頃は北畠がおそらく総代だったのです。津軽統一で敗れたため秋田へ逃げた人たちがあり浪岡隣の板柳に逃げた人たちもいます。江戸時代には北畠の苗字を捨てて山崎を名乗り現在明治になって北畠の苗字に戻した人と山崎という苗字で暮らしている人と両方います。浪岡八幡宮の宮司であるあべさんからきいた話によると今では氏子で北畠さんはいないそうです。津軽為信に敗れた北畠は秋田のお城の檜山城に逃げて安倍安東一族の殿様につかわれて本家は家老職をやっていました。分家は津軽の浪岡から隣の板柳へ隠れて住んでいたのだけれど江戸時代になってから命乞いの為に安倍安東が納めていた情報を津軽を征服した津軽為信の津軽家に横流しにしたのです。その前にすでに秋田県に逃げた檜山城の家老職についている本家筋の一族から命を狙われることになるのです。なので北畠の姓を捨てて山崎と名乗って明治維新を迎えてようやくその時また北畠に戻したということも東日流外三郡誌に書かれています✍️遥か前の話になりますが後醍醐天皇の時に大納言の北畠、その時、中納言をしていたのが藤原藤房。藤原家の人が五所川原の飯詰に逃げてきて大納言、中納言みんな津軽に逃げてきてそういう人たちの末裔がまだ生き残っていて特に浪岡隣の板柳に逃げてきた人たちは今度はお寺も神社も浪岡から外れて津軽家の文豪にかかったから津軽為信の菩提寺がある長勝寺近くの玉川氏菩提寺蘭庭院というお寺に来るのです。玉川家の位牌堂の真迎えに北畠(昔の大納言のお家柄)の位牌があります🫢(玉川氏はあの世で北畠のご先祖様にインタビューする予定だそうです笑😆)津軽に逃げてきた息子の父、北畠顕家(あきいえ)は超イケメンでした。二十歳か二十一歳の時に岸和田の戦で亡くなります。その息子が津軽まで逃げてきました。顕家は能の舞もしていた方でした。将軍として足利尊氏と戦をしているのです⚔️このように万がつくほど古い歴史から400年前までの歴史までとあまりにもスパンが長すぎですし膨大な情報量なのですが200年前の語り部は8,000〜10,000もの持ちネタがあったのです。昔の人は、すご〜い✨駅伝も2,600年も前からあります。駅に馬を置いていました。みんなリレー形式でこちらの東北までつないできました。福澤諭吉も和田すえきちから借りた東日流外三郡誌を返すのは大阪からの飛脚に頼んだのです。慶應大学を創った福澤諭吉は大阪でも大学を創ろうとして大阪に渡ります。当然今みたいな夜行列車などなかった時代です。東京から船で大阪に渡り船の中でも一生懸命東日流外三郡誌を読み、読み終えてから大阪に着き返さなければならないからと和田すえきちに送ります。津軽まで届きました。ところが偽書派は郵便法が出来て飛脚が廃止されたのでその頃は飛脚がもう走っていないから偽書なんだとレッテルを貼りました。ですが玉川氏の上司である竹田侑子氏は(秋田孝季集史研究会会長=弁護士夫人)これには絶対意味があると調べます。福澤諭吉が大阪から送ったのは事実だとして調査を開始すると郵便法が出来ても数年間小荷物はぜんぶ飛脚だったことが分かったのです👏(これは明治のお話です)東日流外三郡誌は古いことも新しいことも残していて奥が深いのです😆まだ発見されていない洞窟の中に実はとんでもない代物が隠されています。そのとんでもない代物とは国旗と天皇旗なのです🇯🇵👑国旗と天皇旗は645年に中大兄皇子がそれを嵯峨野稲見から奪う為に蘇我邸宅に軍隊を送り焼き討ちした時に火の中を探し回った将軍がほんの一部だけみつけます。結局、国旗と天皇旗を見つけることができずでしたが嵯峨野稲見はいつか中大兄皇子かわたしを殺しに来るだろうと察知して関東に天皇旗、国旗を隠していたのです。関東は静岡の安倍川と新潟県の糸魚川が倭国と日本国(ひのもとのくに)の国境でした。関東にも日本国は影響力があったのです。つまり嵯峨野稲見は日本国と仲良くしていたということです。天皇旗国旗を隠したところに大化の改新645年が起こりそれから西暦935年偶然平将門が関東の山中の神社から天皇旗国旗をみつけます。アラハバキ像の中に埋め込まれたものを見つけたのです。(本人は読んでいません。)数奇な運命で940年に平将門は討ち死にします。その後それがどうなったのか。将門をやっつけたのが将軍藤原秀郷なのです。その時、氷川神社は元アラハバキ神社で埼玉の氷川神社の巫女をしていた辰子姫が日本国の大王の娘でした。大王の長男は平将門の討ち入りの日に940年に客人として(当時宮城か岩手にいた東北の大王の長男が)平将門の家にいたのです。その時に攻められたのでその際に長男は将門と一緒に亡くなります。次男安倍頼良は後で大王になり安倍貞任とか安倍宗任とかの戦いの立役者の父親になります。娘(辰子姫)は巫女でしたがやめて将門の側室になり身籠っていた時に将門がなくなり秋田県の田沢湖に逃げます。辰子姫の母は田沢湖出身だから小芭内に逃げてきて平将門の忘形見を産むのです👶生まれた子はとても病弱で辰子姫は『わたしの命と引き換えに生まれた子の命を助けてください』と龍神に願掛けをして田沢湖に飛び込みます🐉その子(かえで姫)を18歳になるまで辰子姫の幼友達(たまむし).が育てます。18歳の時に藤原ふじさとの手下が殺しに来るのです。26人に来たのですがその内8人を倒しますがそれでも力つきて亡くなります😭そういうことも東日流外三郡誌には書かれていると玉川氏が話してくれたところで玉川氏を自宅に送り届けて🚗🏠赤湯温泉に向かいました♨️玉川氏のお話はまだまだ続きます🎤次回ブログへつづく…📝