水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中

近藤芳美(1913-2006)、「埃吹く街」(1948)所収、戦後短歌の超有名な歌を、がんばって、読んでみる。


口語的な文語短歌、難解なところはないように見えて、解釈はむずかしい。
三句に軽い切れ。下句を倒置と読むと、つまらない。
 (海が水銀のような光に)見えて、(レインコートを着るその)部屋の中(...)。

☆☆
一首は体言止め、言いさしで、一首の意味内容は、
結句「部屋の中」が、いったい何だというのか、ということにかかっている。

体言止め余情表現は短歌の常套的な方法とはいえ、一首の意味はかなり曖昧だ。
それは三句、接続助詞「て」切れの、論理的な曖昧さによるところも大きい。

寺山修司はこの歌の曖昧さを強調し、わざと「部屋の中でレインコートを着る」非日常性と読んでみせた。
寺山っぽい読みだが、それだと、上句「水銀の如き光に海見えて」が、あまり活きてこないと思う。焦点がぼやけてしまう。
あたりまえに、平易さの中に詩的な緊張をもたせた歌として読むべきではないか。

☆☆☆
「て」字における、「海が見えた」ことと、「レインコートを着る」ことの関係は、
何か。

原因・理由の接続助詞とすれば、
海が水銀の如き光と見えたことで、天候の悪化を知った「ために」レインコートを着た。こう読めば、リアリスティックな叙景を意識して読むことになる。

あるいは、並列・時間経過。
語り手の意識における、因果関係をもたない2つの事象の時間的な関係を「~して、そして、」と示した、とも読める。
この場合は、語り手の意識体験をフォーカスして読むことになる。

二つの「て」の解釈は、つまるところは表裏一体のものということになるだろうけれど。

☆☆☆☆
水銀の光は、それほど輝かしくない、鈍い光だ。
だから、雨の日の空を映した遠くの海が一つの塊として見えるとき、詩的な誇張はあれ、それは「水銀の如き光に」と言われ得るだろう。

そして、語り手はレインコートを着る。
レインコートが光沢あるものならば、水銀の「光」と照応する、と思ったが、
昭和20年代の服飾についての資料がないので、どのようなレインコートかは、私にとって明確ではないのだった。

☆☆☆☆☆
たぶん、このレインコートはゴム引き防水コートのようなもので、表地は布、たぶん、それほど光ってはいないのではないだろうか。

「水銀の如き光」という詩的な見なしにより、瞬間に海は暗い輝きとして荘厳された。
一方、それを見「て」、語り手自身は、「レインコート」を纏う。
おそらくそれはこれから、雨をふくんで、さらに暗く、くすんでいくことになるのかもしれない。レインコートを着るのは、雨を避けるという日常的な有用性による。
それは詩的な荘厳とは、遠い場所に位置する。

そうすると、初句「水銀」と結句「部屋の中」体言止めの距離は、一瞬暗い輝きを共有しつつ、また遂につながることのない、海と語り手との距離を暗示すると思う。
「て」字の曖昧さは、因果関係をもたない時間的な並列として、この距離感を的確に表現していることになる。

「部屋の中」はすなわち、水銀の如き光の消滅なのだろう。