今、新聞やテレビではモリカケ問題、加計問題、財務省の決裁文書改竄だの、防衛省の日報問題隠蔽や自衛隊の派遣は戦闘地域だったなど、与党への追及を強めるものばかりが話題となっている。
そんな中、国会前での集会などで「民主主義を取り戻せ」などと叫んでいる国会議員や野党支持者がいる。
その民主主義であるが問題点もある。その最大の問題点は、民主主義が本質的に持つポピュリズムに支配されることである。
古代ギリシャでは、プラトンがソクラテスを処刑したアテネの民主政治(※1)を衆愚政治として否定し、哲人政治を説いた。
第2次世界大戦のドイツでは、ヒトラー率いるナチスも民主的に議会で支持され生まれた政権であり、国民は熱狂的に支持した。
戦後の日本に生まれた人々は、そんな昔話に耳を傾けないかもしれないが、日本もポピュリズムの国と言われたら耳を傾けるのではないだろうか?
実は、日本の政治も、戦前からポピュリズムに支配されたものであったのである。日本のポピュリズムは、日露戦争の講和を不満とする民衆の「日比谷焼き討ち事件」(※2)に始まり、普通選挙の後に本格化したと言われ、そして軍部を台頭させ、日米戦争へと導いたのはポピュリズムと言われている。
普通選挙制度後、大衆受けに腐心する政党の党利党略に幻滅した国民は、中立的な軍部や官僚支持するようになり、その世論を軍部も常に意識するようになった。しかし、国民は満州事変と満州国建国を熱率に支持し、国際連盟を脱退して帰国した松岡洋右を英雄として歓呼の声で出向かるほどであった。そして、政党政治を批判するばかりのメディアも問題であったのである。それは、新体制(※3)といった非民主的な体制と軍部の独走を生むこととなった。日中戦争勃発後、軍部は報道統制をしたが、これに抵抗する新聞社はなく、生き残るために自ら戦争を煽ったのである。全紙が軍部のプロパガンダ紙となり、発行部数を飛躍的に伸ばした。
新聞を信頼する国民は、軍部を支持し日米戦争に行着く。しかし敗戦後は、国民も報道機関も、その責任を全て軍部に押し付けた。戦争支持の国民的熱狂に支配された昭和の魔性を作り出した正体は「ポピュリズム」だったのだ。しかし、生き残るために戦争を煽った新聞各社は責任を取ることなく、終戦後から「戦争は終わった、これからは民主主義だ」との論調に豹変。所詮そんなものなのである。
メディアに異常な人気のあった近衛文麿はポピュリストであったと言われた。戦前、議会政治が始まって以来、ポピュリズムに無縁と言われた政治家として原敬がいる。この政治家が暗殺されなければ、政党政治を確立し、日米戦争の悲劇に至らなかったかもしれない。
なお、戦後のポピュリズムに無縁な政治家として吉田茂(麻生副総理の叔父)と岸信介(安倍総理の祖父)がいる。
今の日本はどうであろうか?ネットの普及によって、フェイクニュースを暴き出すとは言われていても、新聞、テレビに煽られている国民がまだまだ多いのではないだろうか?
※1: ソクラテスは「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で公開裁判にかけられることになった。アテナイの500人の市民がソクラテスの罪は死刑に値すると断じた。原告は詩人のメレトスで、政界の有力者アニュトス(英語版)らがその後ろ楯となった。しかし、ソクラテスの刑死の後、(ソクラテス自身が最後に予言した通り)アテナイの人々は不当な裁判によってあまりにも偉大な人を殺してしまったと後悔し、告訴人たちを裁判抜きで処刑したという。告訴の背景には、上記の他にもペロポネソス戦争とその後の暴政(三十人政権)など複雑な事情があったと考えられる。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9)
※2: 1905年のポーツマス条約によってロシアは北緯50度以南の樺太島の割譲および租借地遼東半島の日本への移譲を認め、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。しかし、同条約では日本に対するロシアの賠償金支払い義務はなかったため、日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者や膨大な戦費(対外債務も含む)を支出したにも関わらず、直接的な賠償金が得られなかった。そのため、国内世論の非難が高まり、暴徒と化した民衆によって内務大臣官邸、御用新聞と目されていた国民新聞社、交番などが焼き討ちされる事件が起こった。なお、同事件では戒厳令(緊急勅令)も布かれた。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%AF%94%E8%B0%B7%E7%84%BC%E6%89%93%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
※3: 1940年(昭和15年)、近衛文麿が中心となり、ナチ党やファシスト党を模して一国一党の国民組織を結成しようとした政治運動。明治維新に始まる帝国主義路線(小ブルジョア‐市民革命)路線を批判し、明治以来の学校制度の廃止、政党の解体、労働組合の大同団結を通して、私有財産制の廃止と帝国主義列強との戦争を目指した。 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BD%93%E5%88%B6%E9%81%8B%E5%8B%95)
そんな中、国会前での集会などで「民主主義を取り戻せ」などと叫んでいる国会議員や野党支持者がいる。
その民主主義であるが問題点もある。その最大の問題点は、民主主義が本質的に持つポピュリズムに支配されることである。
古代ギリシャでは、プラトンがソクラテスを処刑したアテネの民主政治(※1)を衆愚政治として否定し、哲人政治を説いた。
第2次世界大戦のドイツでは、ヒトラー率いるナチスも民主的に議会で支持され生まれた政権であり、国民は熱狂的に支持した。
戦後の日本に生まれた人々は、そんな昔話に耳を傾けないかもしれないが、日本もポピュリズムの国と言われたら耳を傾けるのではないだろうか?
実は、日本の政治も、戦前からポピュリズムに支配されたものであったのである。日本のポピュリズムは、日露戦争の講和を不満とする民衆の「日比谷焼き討ち事件」(※2)に始まり、普通選挙の後に本格化したと言われ、そして軍部を台頭させ、日米戦争へと導いたのはポピュリズムと言われている。
普通選挙制度後、大衆受けに腐心する政党の党利党略に幻滅した国民は、中立的な軍部や官僚支持するようになり、その世論を軍部も常に意識するようになった。しかし、国民は満州事変と満州国建国を熱率に支持し、国際連盟を脱退して帰国した松岡洋右を英雄として歓呼の声で出向かるほどであった。そして、政党政治を批判するばかりのメディアも問題であったのである。それは、新体制(※3)といった非民主的な体制と軍部の独走を生むこととなった。日中戦争勃発後、軍部は報道統制をしたが、これに抵抗する新聞社はなく、生き残るために自ら戦争を煽ったのである。全紙が軍部のプロパガンダ紙となり、発行部数を飛躍的に伸ばした。
新聞を信頼する国民は、軍部を支持し日米戦争に行着く。しかし敗戦後は、国民も報道機関も、その責任を全て軍部に押し付けた。戦争支持の国民的熱狂に支配された昭和の魔性を作り出した正体は「ポピュリズム」だったのだ。しかし、生き残るために戦争を煽った新聞各社は責任を取ることなく、終戦後から「戦争は終わった、これからは民主主義だ」との論調に豹変。所詮そんなものなのである。
メディアに異常な人気のあった近衛文麿はポピュリストであったと言われた。戦前、議会政治が始まって以来、ポピュリズムに無縁と言われた政治家として原敬がいる。この政治家が暗殺されなければ、政党政治を確立し、日米戦争の悲劇に至らなかったかもしれない。
なお、戦後のポピュリズムに無縁な政治家として吉田茂(麻生副総理の叔父)と岸信介(安倍総理の祖父)がいる。
今の日本はどうであろうか?ネットの普及によって、フェイクニュースを暴き出すとは言われていても、新聞、テレビに煽られている国民がまだまだ多いのではないだろうか?
ポピュリズムを克服するためには「国民の見抜く力」にかかっている。
※1: ソクラテスは「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などの罪状で公開裁判にかけられることになった。アテナイの500人の市民がソクラテスの罪は死刑に値すると断じた。原告は詩人のメレトスで、政界の有力者アニュトス(英語版)らがその後ろ楯となった。しかし、ソクラテスの刑死の後、(ソクラテス自身が最後に予言した通り)アテナイの人々は不当な裁判によってあまりにも偉大な人を殺してしまったと後悔し、告訴人たちを裁判抜きで処刑したという。告訴の背景には、上記の他にもペロポネソス戦争とその後の暴政(三十人政権)など複雑な事情があったと考えられる。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9)
※2: 1905年のポーツマス条約によってロシアは北緯50度以南の樺太島の割譲および租借地遼東半島の日本への移譲を認め、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。しかし、同条約では日本に対するロシアの賠償金支払い義務はなかったため、日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者や膨大な戦費(対外債務も含む)を支出したにも関わらず、直接的な賠償金が得られなかった。そのため、国内世論の非難が高まり、暴徒と化した民衆によって内務大臣官邸、御用新聞と目されていた国民新聞社、交番などが焼き討ちされる事件が起こった。なお、同事件では戒厳令(緊急勅令)も布かれた。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%AF%94%E8%B0%B7%E7%84%BC%E6%89%93%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
※3: 1940年(昭和15年)、近衛文麿が中心となり、ナチ党やファシスト党を模して一国一党の国民組織を結成しようとした政治運動。明治維新に始まる帝国主義路線(小ブルジョア‐市民革命)路線を批判し、明治以来の学校制度の廃止、政党の解体、労働組合の大同団結を通して、私有財産制の廃止と帝国主義列強との戦争を目指した。 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BD%93%E5%88%B6%E9%81%8B%E5%8B%95)
引用:神田 淳(かんだ すなお)高知工科大学客員教授の寄稿文引用