ぼくの知人に刑務所に入所している人がいる。その人から、自分の自殺権についての意見をいろんな人に読んでもらい、意見を聞きたいという要望が伝えられた。それで彼に代わって彼の意見をブログに上げることにした。興味を持たれたら意見をお聞かせ願いたい。その意見を彼に郵便で伝えることにする。以下、彼の意見(文章)をそのままアップする。

 

 難病で苦しんでる人の自殺を手助けした医者が逮捕された事件があった。「自殺したいなら勝手に死ねば良い」という人もいるけれど、自分の力では死ぬことができないから、こういう事件が起きた。本人が死にたいほど苦しいと思っているのに、社会が自殺をできないようにしておいて「勝手に死ねばよい」というのはおかしいと思う。自分の人生の決定権は社会ではなく個人にあるべきだ。これは難病の人に限らない。自殺をするのはとても難しい。計画性や行動力や決断力が必要だ。死にたいと思うほど苦しんでいるのに死ねないでいるすべての人に自殺権が認められるべきだ。(スイスでは安楽死が合法化されている。難病等の社会的に自殺をしても仕方ないと認められるような理由があり、必要経費を支払えれば、薬を飲んで眠るように死ねるのである。

このような薬が無条件で全ての国民に配布されることが私の目標である。このスイスの安楽死制度には大きな問題がある。普通の社会制度(税金等)では、強者ほど制限を受けて弱者ほど優遇されるようになっている。しかし、このスイスの制度では、必要経費を払えるような経済的に余裕のある人や社会的な多数派。(弱者から見れば強者)だけが自分の人生の決定権を与えられているのだ。自分が耐えられる苦痛の限界を自分で決めて苦痛から逃れることができるのである。

それなのに弱者(社会的少数派や安楽死の費用を払えないような貧しい人々)は、自分の苦痛の限界を自分で決めることも、苦痛から逃れることもできないのである。安楽死が認められる基準は多数派の価値観ではなく、個人的な価値観によって決められるべきだ。

難病等の社会的に認められるような理由がなくても弱者は普通の人の半分の苦痛で、さらに弱い人は普通の10分の1の苦痛で安楽死が認められるべきだ。日本のような安楽死が認められていない国でも、計画性や行動力や判断力のある社会的な強者は、自分が死にたいと思ったときに自由に自殺できるのに、弱者はこの世界から逃れられないのである。

いじめられていた中学生が自殺をほのめかして行方不明になり、凍死した事件があった。自殺権が確立されていないからこのような悲惨な事件が起こるのである。まずこの事件の加害者たちがなぜいじめを行ったのかといえば、自分たちが耐えられる苦痛の限界を社会的な権力者によって決められてきたからである。自殺権の確立されていない世界では、自分がどのような苦痛にどこまで耐えられるかは権力者が決定するのである。本人がどれほど苦しんでいて、この苦痛から逃れたいと思っても、(死にたいと思っても)社会的に認められない理由であれば本人の感情は無視されるのである。自殺は最大限の苦痛から逃れるための最後の手段である。自分が最も苦しんでいるときにその苦痛を無視されて、苦痛から逃れることも許してもらえず、何の役にも立たない慰めを受けてお前がどんなに苦しくても死にたいと思っていても、私が死んで欲しくないのだから死んではならないと言われるだ。

さらに人の意思を無視して苦痛から逃れることを妨害しておいて、(身体拘束したり、全力で蘇生させようとしたり)自殺を止められたと言って喜んでいるのである。自殺権が確立されない限り、加害者たちが反省することはないだろう。

いつ誰が自殺を止めるの正義といったのか知らないが、最大限の苦痛から逃れようとしている人間の意思を無視して喜んでいるような世界で、なぜいじめ(人を苦しめて遊ぶこと)が悪いことだと思えるのか。

次に、被害者が自殺してしまったのも自殺権が確立されていないことに原因がある。

自殺権のない世界では自殺をほのめかすと非難されるのである。被害者が自殺した必殺したい(苦痛から逃れたい)と言ったとき、本人の意思は否定されたのである。慰めてももらっただろうけれど、苦しくてどうしようもないときに味方だと思ってた人たちに拒絶されたのだ。

自殺権があれば、本人が死にたいと思ったときに死ねるのだから、自殺することに関して議論する必要はない。全てのエネルギーを本人の苦痛を癒すことだけに集中できるのだ。大切な人に自殺して欲しくないと思うのなら、その人の苦痛を癒すことに全力を尽くせば良いのであって、自殺(苦痛から逃れること)するかどうかの決定権は本人にあるべきだ(権利を奪ってはならない)。そして被害者が最期に見た光景について、被害者は凍死するような気温の公園で寒さに震えながら苦しんで死んだのだ。自分の味方になってくれるはずの人たちから遠く離れて(自殺、苦痛から逃れること許してくれなかったから)自分にとって最大限の苦痛から逃れたいという痛切な願いを聞いてもらえなかった。絶望と苦痛の中で死んだのだ。彼女が自殺を決意したのはいじめられて苦しくなったときではなく、自分を受け入れてくれると思っていた大切な人たちに裏切られたときなのだ。自殺権があれば、彼女は自分の部屋の暖かいベッドの中で(大切な人たちのいないときかもしれないが)、眠るように安らかに死ねたのだ。彼女は最期に自分の苦痛とそれから逃れたいという自分の意思を認めてくれた大切な人たちの愛情を感じられただろう。この世界にはいじめをするような残酷な人たちがいて、大切な人たちの生きていてほしいという思いを裏切ってしまったのだとしても、自殺を抑止するのは自分の意思を拒絶された絶望ではなく認めてくれる愛情だろう。自殺権は自殺を推進するものではなく、防ぐものなのである。

 

以上。このブログに対するご意見をお待ちしています。