After Concert -1-
鞄から楽譜を取り出し、セットする。
ピアノと僕だけの時間。深呼吸を一つ、鍵盤に指を滑らせる。
ドビュッシー「月の光」。
練習前の指慣らしとして、飽きるくらい弾いている曲だ。
放課後なのに、校内は賑やかだった。
それというのも、迫っている文化祭の準備に追われているからだ。模擬店舗の打ち合わせや、各部活の出し物、気の合う連中と組んでやる出し物―――有志発表の練習がそこかしこで行われている。
ただ、僕の居るこの音楽室だけは静かだった。他に、誰も居ない。
ブラスバンド部は専用の練習場所でやっているし、他の有志バンドは別の音楽室や教室に居る。つまり、ここは貸し切り状態という訳だ。
かく言う僕も、有志発表のメンバーだ。ただし、組む相手は居ない。僕一人だけだ。
去年の文化祭も、一人で演奏をやり切った。
幼い頃からピアノをやっていて、合唱コンクールの演奏を頼まれたついでにエントリーをしたのだ。
今回は単純に「どうせなら今年もやってみる」、それが理由だ。
勿論、今年も合唱コンクールの演奏を頼まれている。更に言えば、ブラスバンド部の補欠ピアノ要員でもある。練習する曲は大量にある。お陰で自分の発表曲を練習する時間は少ない。
けれども、趣味でピアノをやっている僕にとっては苦にならない。弾く曲が多くて嬉しいくらいだ。
曲が中盤に差し掛かった時、教室のドアが開いた。
顔を覗かせたのは、この教室を担当している先生。それと、後ろに何人かの生徒。
演奏を止める。閉館するにはまだ早い時間だ。
「今日は早めに閉館ですか?」
「いや。実は今年有志バンドが多くてな。君に相部屋を頼もうと思うんだが…構わんかね?」
「構いませんが……一体誰と?」
先生は後ろの生徒達を教室へ招き入れる。
男子と女子が二人ずつ。男子生徒は二人とも先輩、女子生徒は一人が同級生、一人は後輩だ。
彼らが携えているのは、弦楽器。チェロと、恐らくはヴァイオリンとヴィオラ。チェロ以外は見分けが付かない。
「悪いね、居候させて貰うよ」
先輩が僕に笑いかける。僕はその顔に見覚えがあった。
確か、去年も居た。そして同じ四人編成で発表をしていたはずだ。
僕の記憶に間違いが無ければ、彼らは―――。
「もしかして、カルテット…の方々、ですか?」
「ん、覚えててくれたんだ?」
「ええ、去年はパッヘルベルのカノンでしたよね」
四人編成、故にカルテット。この学校唯一の弦楽四重奏団。
忘れる訳が無い。バンド形式の発表が大半を占める中、ピアノソロの僕とこの四人組は異色だったと言われていたのだ。
カルテットなんて、単純極まりない何の捻りもないネーミングだ。だがその腕前は群を抜いている。
名前なんてただの飾り。彼らにとっては音符一つの価値も無いのだろう。
「今年は何を?」
「ヴィヴァルディの四季から、聞いたことありそうなのを選んでやる予定」
「ヴィヴァルディ、ですか…」
四季と言われても「春」くらいしか解らない。その「春」も、僕からすればかなり難しい曲だ。それをやるという彼らは、僕と同じく幼い頃からやっていたのだろうか。
「じゃ、仲良くやってね」
先生はそう言って音楽室から出て行く。
さて、と練習をしようにも、カルテットの面々の邪魔になりそうで手を付けられない。
所在ない僕の気分を知ってか知らずか、彼らは各々の楽器を取り出し準備を始める。
良い機会だ。彼らの練習風景がどんなものなのか、じっくりと見学出来る。
調弦が始まった。飛び立つ前の雛鳥の様な音が、徐々に整い始める。
そして、ぴたりと止まる。呼吸する事さえ忘れそうな緊張感。
同級生の彼女が、一度だけ僕を見て、メンバーに合図を送った。
―――ヴィヴァルディ、ヴァイオリン協奏曲「四季」、協奏曲第一番「春」、第一楽章。
圧倒、の一言だった。それ以外に表現する術が無い。
彼らのアレンジのせいか、それとも、近くで聞いているからか。
何にせよ、彼らの実力は相当のものだと身を以て理解した。
同じ舞台に立つのかと思うと、少し怖い。畏怖と言うべきかもしれない。
これが、有志として文化祭に出ると言うのか。少なくとも僕は、同列には扱えない。
多分、彼らは学外でも活動をしているのだろう。そうとしか思えない。
僕の目を一際引いたのが、同級生の彼女だ。
主旋律のヴァイオリンの彼女。僕を見た時は「同級生」だったのに、演奏時の目は「奏者」そのものだった。
彼女の操るソロヴァイオリンの歌声が、まだ頭の中で響いている。
とんでもない人達と共に練習する事になってしまった。いっそ、自宅で練習するだけにした方が良いかもしれない。
「それじゃ、後は個人練習って事で」
各々の練習する音が、余韻を奪っていく。夢から醒めるような心地。
負けてはいられない、と弱気な心を叱咤し、僕も練習に入る。
ピアノと僕だけの時間。深呼吸を一つ、鍵盤に指を滑らせる。
ドビュッシー「月の光」。
練習前の指慣らしとして、飽きるくらい弾いている曲だ。
放課後なのに、校内は賑やかだった。
それというのも、迫っている文化祭の準備に追われているからだ。模擬店舗の打ち合わせや、各部活の出し物、気の合う連中と組んでやる出し物―――有志発表の練習がそこかしこで行われている。
ただ、僕の居るこの音楽室だけは静かだった。他に、誰も居ない。
ブラスバンド部は専用の練習場所でやっているし、他の有志バンドは別の音楽室や教室に居る。つまり、ここは貸し切り状態という訳だ。
かく言う僕も、有志発表のメンバーだ。ただし、組む相手は居ない。僕一人だけだ。
去年の文化祭も、一人で演奏をやり切った。
幼い頃からピアノをやっていて、合唱コンクールの演奏を頼まれたついでにエントリーをしたのだ。
今回は単純に「どうせなら今年もやってみる」、それが理由だ。
勿論、今年も合唱コンクールの演奏を頼まれている。更に言えば、ブラスバンド部の補欠ピアノ要員でもある。練習する曲は大量にある。お陰で自分の発表曲を練習する時間は少ない。
けれども、趣味でピアノをやっている僕にとっては苦にならない。弾く曲が多くて嬉しいくらいだ。
曲が中盤に差し掛かった時、教室のドアが開いた。
顔を覗かせたのは、この教室を担当している先生。それと、後ろに何人かの生徒。
演奏を止める。閉館するにはまだ早い時間だ。
「今日は早めに閉館ですか?」
「いや。実は今年有志バンドが多くてな。君に相部屋を頼もうと思うんだが…構わんかね?」
「構いませんが……一体誰と?」
先生は後ろの生徒達を教室へ招き入れる。
男子と女子が二人ずつ。男子生徒は二人とも先輩、女子生徒は一人が同級生、一人は後輩だ。
彼らが携えているのは、弦楽器。チェロと、恐らくはヴァイオリンとヴィオラ。チェロ以外は見分けが付かない。
「悪いね、居候させて貰うよ」
先輩が僕に笑いかける。僕はその顔に見覚えがあった。
確か、去年も居た。そして同じ四人編成で発表をしていたはずだ。
僕の記憶に間違いが無ければ、彼らは―――。
「もしかして、カルテット…の方々、ですか?」
「ん、覚えててくれたんだ?」
「ええ、去年はパッヘルベルのカノンでしたよね」
四人編成、故にカルテット。この学校唯一の弦楽四重奏団。
忘れる訳が無い。バンド形式の発表が大半を占める中、ピアノソロの僕とこの四人組は異色だったと言われていたのだ。
カルテットなんて、単純極まりない何の捻りもないネーミングだ。だがその腕前は群を抜いている。
名前なんてただの飾り。彼らにとっては音符一つの価値も無いのだろう。
「今年は何を?」
「ヴィヴァルディの四季から、聞いたことありそうなのを選んでやる予定」
「ヴィヴァルディ、ですか…」
四季と言われても「春」くらいしか解らない。その「春」も、僕からすればかなり難しい曲だ。それをやるという彼らは、僕と同じく幼い頃からやっていたのだろうか。
「じゃ、仲良くやってね」
先生はそう言って音楽室から出て行く。
さて、と練習をしようにも、カルテットの面々の邪魔になりそうで手を付けられない。
所在ない僕の気分を知ってか知らずか、彼らは各々の楽器を取り出し準備を始める。
良い機会だ。彼らの練習風景がどんなものなのか、じっくりと見学出来る。
調弦が始まった。飛び立つ前の雛鳥の様な音が、徐々に整い始める。
そして、ぴたりと止まる。呼吸する事さえ忘れそうな緊張感。
同級生の彼女が、一度だけ僕を見て、メンバーに合図を送った。
―――ヴィヴァルディ、ヴァイオリン協奏曲「四季」、協奏曲第一番「春」、第一楽章。
圧倒、の一言だった。それ以外に表現する術が無い。
彼らのアレンジのせいか、それとも、近くで聞いているからか。
何にせよ、彼らの実力は相当のものだと身を以て理解した。
同じ舞台に立つのかと思うと、少し怖い。畏怖と言うべきかもしれない。
これが、有志として文化祭に出ると言うのか。少なくとも僕は、同列には扱えない。
多分、彼らは学外でも活動をしているのだろう。そうとしか思えない。
僕の目を一際引いたのが、同級生の彼女だ。
主旋律のヴァイオリンの彼女。僕を見た時は「同級生」だったのに、演奏時の目は「奏者」そのものだった。
彼女の操るソロヴァイオリンの歌声が、まだ頭の中で響いている。
とんでもない人達と共に練習する事になってしまった。いっそ、自宅で練習するだけにした方が良いかもしれない。
「それじゃ、後は個人練習って事で」
各々の練習する音が、余韻を奪っていく。夢から醒めるような心地。
負けてはいられない、と弱気な心を叱咤し、僕も練習に入る。