海楼の楽園
海の向こうは何かがある。
そんな希望を抱いて、昔の人は漕ぎ出していったに違いない。
彼らは二度と帰らぬ旅に出た。
それは、海の向こうに辿り着いたから。新しい世界を築いているから。
幼い頃に何度も聞かされた話だ。
幼い俺はその海を眺めながら、いつかは海に出たいと憧れていた。
「なぁ、アンタ。セイレーンを知ってるか?」
船乗りの間じゃ有名な話なんだが、と男は付け加えた。
ほろ酔いでちょっとした想い出に浸っていた俺は、ぶっきらぼうに応える。
「聞いたことはある」
俺はグラスの中身を飲み干し、男を見据える。
「噂じゃぁ、羽根の生えた人魚の姿をしてるらしい」
奢りだ、と男は俺のグラスに酒を注ぐ。
「歌を歌って誘惑する怪物だろ」
礼の代わりにグラスを掲げ、口を付ける。きつい酒だった。思わず顔をしかめる。
そんな俺を見て、思ったより酒に弱いな、と男は豪快に笑った。
海の男という言葉がそのまま人間になった様なヤツだ、俺はそう思った。
外では風が唸っている。雨も降り始めた。
「こりゃ本格的な嵐になるな…」
店主が呟く。
昼間は良い天気だった。俺が港へ出た時は嵐の気配すら無かったのだ。時化なのだろうか。
ガタガタと窓枠が揺れている。
男はしばらく黙り、グラスの酒をあおる。男の指輪が鈍く光る。潮に晒されたせいか、変色している。
「今日みたいな嵐も、セイレーンの仕業らしい」
黙っていた男がぽつりと言った。俺のグラスにまた酒を注ぐ。
「セイレーンの仕業?何だ、それは」
男はぽつりぽつりと語り出す。この港町に伝わる話だった。
元々セイレーンは人間の女、ごく普通の町娘達だった。
昔、まだこの港町への航路が無かった頃の昔の話だ。
大潮が、ここを襲ったのだ。
波が町を押し潰し、陸を舐め尽くし、海の底へと引きずり込んだのだ。
犠牲になったのは、幼い子供と女達ばかりだった。
男達の絶望は想像するに余りある。高台か沖に居た男達は、この惨劇に気付かなかったのだ。仕事をしていたから、彼らは無事だったのだ。その事が、余計に彼らを苦しめたのだろう。
無茶苦茶になった港町。それを男達と、僅かに生き残った女達と、力を合わせて復旧していった。
そしてこの港町にも航路が出来た。
その頃からだ。「この海にセイレーンが出る」という噂が立ち始めたのは。
せっかく通じた航路も、行き交う船が少なくなった。
このままでは仕事にも差し障りがある、そういって確かめに出て行った男達は帰ってこなかった。
唯一生き残った少年は、こう言ったそうだ。
「あの時流された女の人がセイレーンになっていた」と。
そのセイレーン達は、嵐の夜にだけ現れる幻の島に居るという。
「へぇ…そいつは初耳だ」
酔いの回った頭で何とか応じる。
今ではその伝説すら語られる事は少ない。この港の有用性が、いつしか伝説を消していったのだろう。
「嵐もそうさ。セイレーンが泣けば嵐が起こるんだ」
俺に構わず男は続ける。
「今日は酷い嵐になる。女達が流された日は、特に酷い嵐になる」
突風が吹き、酒場の窓が激しく揺れる。何かが倒れたらしい。大きな物音がしている。
今日は早いとこ閉めちまうかな、と店主が片付けを始める。
気付けば、客の姿はまばらになっていた。
「酷い嵐だな」
俺は呟き、男を見る。
「明日には止むさ、安心しろ」
男は俺の分も金を払った。俺の分は払うと言うと男はそれを制した。
「話の礼だ」
「済まない…ありがとう」
俺は手を差し出した。ざらついた指輪の感触が絡む。
「また明日な」
そう言い置いて、男は店を出て行った。
翌朝、男が言った通りに嵐は止んでいた。
嘘のように晴れ上がった空に、カモメがゆらゆらと漂っている。
その天気とは裏腹に、港は大騒ぎだった。
男があの嵐の夜、船で出て行ったと言うのだ。
指輪の感触を思い出す。
まさか、と思い海を見る。
嵐の過ぎた海は、何かを隠すように深い青を湛えていた。
そんな希望を抱いて、昔の人は漕ぎ出していったに違いない。
彼らは二度と帰らぬ旅に出た。
それは、海の向こうに辿り着いたから。新しい世界を築いているから。
幼い頃に何度も聞かされた話だ。
幼い俺はその海を眺めながら、いつかは海に出たいと憧れていた。
「なぁ、アンタ。セイレーンを知ってるか?」
船乗りの間じゃ有名な話なんだが、と男は付け加えた。
ほろ酔いでちょっとした想い出に浸っていた俺は、ぶっきらぼうに応える。
「聞いたことはある」
俺はグラスの中身を飲み干し、男を見据える。
「噂じゃぁ、羽根の生えた人魚の姿をしてるらしい」
奢りだ、と男は俺のグラスに酒を注ぐ。
「歌を歌って誘惑する怪物だろ」
礼の代わりにグラスを掲げ、口を付ける。きつい酒だった。思わず顔をしかめる。
そんな俺を見て、思ったより酒に弱いな、と男は豪快に笑った。
海の男という言葉がそのまま人間になった様なヤツだ、俺はそう思った。
外では風が唸っている。雨も降り始めた。
「こりゃ本格的な嵐になるな…」
店主が呟く。
昼間は良い天気だった。俺が港へ出た時は嵐の気配すら無かったのだ。時化なのだろうか。
ガタガタと窓枠が揺れている。
男はしばらく黙り、グラスの酒をあおる。男の指輪が鈍く光る。潮に晒されたせいか、変色している。
「今日みたいな嵐も、セイレーンの仕業らしい」
黙っていた男がぽつりと言った。俺のグラスにまた酒を注ぐ。
「セイレーンの仕業?何だ、それは」
男はぽつりぽつりと語り出す。この港町に伝わる話だった。
元々セイレーンは人間の女、ごく普通の町娘達だった。
昔、まだこの港町への航路が無かった頃の昔の話だ。
大潮が、ここを襲ったのだ。
波が町を押し潰し、陸を舐め尽くし、海の底へと引きずり込んだのだ。
犠牲になったのは、幼い子供と女達ばかりだった。
男達の絶望は想像するに余りある。高台か沖に居た男達は、この惨劇に気付かなかったのだ。仕事をしていたから、彼らは無事だったのだ。その事が、余計に彼らを苦しめたのだろう。
無茶苦茶になった港町。それを男達と、僅かに生き残った女達と、力を合わせて復旧していった。
そしてこの港町にも航路が出来た。
その頃からだ。「この海にセイレーンが出る」という噂が立ち始めたのは。
せっかく通じた航路も、行き交う船が少なくなった。
このままでは仕事にも差し障りがある、そういって確かめに出て行った男達は帰ってこなかった。
唯一生き残った少年は、こう言ったそうだ。
「あの時流された女の人がセイレーンになっていた」と。
そのセイレーン達は、嵐の夜にだけ現れる幻の島に居るという。
「へぇ…そいつは初耳だ」
酔いの回った頭で何とか応じる。
今ではその伝説すら語られる事は少ない。この港の有用性が、いつしか伝説を消していったのだろう。
「嵐もそうさ。セイレーンが泣けば嵐が起こるんだ」
俺に構わず男は続ける。
「今日は酷い嵐になる。女達が流された日は、特に酷い嵐になる」
突風が吹き、酒場の窓が激しく揺れる。何かが倒れたらしい。大きな物音がしている。
今日は早いとこ閉めちまうかな、と店主が片付けを始める。
気付けば、客の姿はまばらになっていた。
「酷い嵐だな」
俺は呟き、男を見る。
「明日には止むさ、安心しろ」
男は俺の分も金を払った。俺の分は払うと言うと男はそれを制した。
「話の礼だ」
「済まない…ありがとう」
俺は手を差し出した。ざらついた指輪の感触が絡む。
「また明日な」
そう言い置いて、男は店を出て行った。
翌朝、男が言った通りに嵐は止んでいた。
嘘のように晴れ上がった空に、カモメがゆらゆらと漂っている。
その天気とは裏腹に、港は大騒ぎだった。
男があの嵐の夜、船で出て行ったと言うのだ。
指輪の感触を思い出す。
まさか、と思い海を見る。
嵐の過ぎた海は、何かを隠すように深い青を湛えていた。