消された真実 | バークレーの書きたい放題!

消された真実


 


消された真実


 



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デンマンさん。。。、消された真実 というタイトルを書いてますけれど、いったいどの真実が消されたのですかァ~?



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あのねぇ~、消された真実というのはたくさんあるのですよ。。。例えば、ケネディ大統領暗殺ですよ。。。


あらっ。。。ケネディ大統領の犯人がオズワルドの他にいて、その真犯人の事実が消されたのですかァ~?


そうです。。。


でも、そういう話は聞いたことがありませんわ。。。


知っている人は知っているのですよ。。。すでに僕が記事に書いたのでジュンコさんも読んでみてねぇ~。。。


 



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『JFK暗殺の証拠』


 



あらっ。。。政府がらみで真犯人に関わる真実を消したのですかァ~?



そうですよ。。。ケネディ大統領暗殺に政府の要人が関わっていたということが知れたら、アメリカ国内は騒然となるので、未だに重要書類は公開されてません。。。


でも、本当に政府の要人が関わっていたのですかァ~?


関わっていたのです。。。だからこそ、事件が起きたのは1963年だったけれど、証拠になるような重要な書類は2023年まで公開されななかった。。。なぜ、60年間も公開されなかったのか? オズワルドが犯人であるならば60年間も書類を非公開にする必要はないのですよ。。。当時の政府の要人が関わっていたからこそ、60年間も書類が未公開だった。。。でも、未だに重要な書類は極秘にされている。。。つまり、政府の要人が暗殺の裏で重要な役割を果たしていたからですよ。。。


。。。で、今日取り上げる消された真実 は別のアメリカの事件ですか?


いや。。。日本の事件です。。。たまたまYouTubeで「人間ドキュメント」のクリップを探していたら次のクリップに出くわしたのですよ。。。


 



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『動画を見る』


 



あらっ。。。この事件でも真実が消されたのですかァ~?



そうなのです。。。この番組は1988(昭和63)年に放映されたのだから、見た人もかなりいると思います。。。


その消された真実というのは、どういうものだったのですか?


そもそも、二・二六事件というものはどういうものだったのか? ウィキペディアに書いてあることをまとめてみました。。。ジュンコさんも読んでみてねぇ~。。。


 



二・二六事件


 



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二・二六事件とは、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて発生した日本のクーデター未遂事件。


皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠したが、最終的に青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した一部を除いて投降したことで収束した。


この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の広田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。


昭和初期から、陸軍では統制派と皇道派の思想が対立し、また、海軍では艦隊派と条約派が対立していた。


統制派の中心人物であった永田鉄山らは、1926年(大正15年/昭和元年)には第1次若槻内閣下で、諸国の国家総動員法の研究を行っていた。


一方、その後の犬養内閣は、荒木貞夫陸軍大将兼陸軍大臣や教育総監真崎甚三郎陸軍大将、陸軍軍人兼貴族院議員の菊池武夫を中心とする、ソ連との対立を志向する皇道派を優遇した


皇道派の青年将校(20歳代の隊附の大尉、中尉、少尉達)のうちには、彼らが政治腐敗や農村困窮の要因と考えている元老重臣を殺害すれば天皇親政が実現し諸々の政治問題が解決すると考え、「昭和維新、尊皇斬奸」などの標語を掲げる者もあった。


しかし満州事変に続く犬養首相暗殺事件ののち、日本国は軍政に移行する。


斎藤内閣は青年将校らの運動を脅しが効く存在として暗に利用する一方、官僚的・立法的な手続により軍拡と総力戦を目指す統制派(ソ連攻撃を回避する南進政策)を優遇した。


行政においても、1934年には司法省がナチス法を喧伝しはじめ、帝国弁護士会がワシントン海軍軍縮条約脱退支持の声明を行い、陸軍大臣には統制派の林銑十郎陸軍大将が就任し、皇道派を排除しはじめた。


1935年7月、皇道派の重鎮である真崎が辞職勧告を受けるに至っては、陸軍省内で陸軍中佐相沢三郎による相沢事件が発生し、当時は陸軍軍務局長となっていた統制派主導者の永田鉄山が死亡した


斎藤内閣や林ら陸軍首脳らはこれに対し、皇道派将校が多く所属する第一師団の満州派遣を決定する。


皇道派の青年将校たちは、その満州派遣の前、1936年(昭和11年)2月26日未明、部下の下士官兵1483名を引き連れて決起した


決起将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊等の部隊中の一部を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監、牧野伸顕前・内大臣を襲撃、首相官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。


元首相兼海軍軍人斎藤実は殺害されたが後継の岡田啓介首相は無傷であった。


将校らは、林銑十郎ら陸軍首脳を通じ、昭和天皇に昭和維新の実現を訴えたが、天皇は激怒してこれを拒否。
自ら近衛師団を率いて鎮圧するも辞さずとの意向を示す


これを受けて、事件勃発当初は青年将校たちに対し否定的でもなかった陸軍首脳部も、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧することを決定し、包囲して投降を呼びかけることとなった。


叛乱将校たちは下士官兵を原隊に帰還させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。


しかし彼らの考えが斟酌されることはなく広田内閣の陸軍大臣寺内寿一の下、一審制裁判により、事件の首謀者ならびに将校たちの思想基盤を啓蒙した民間思想家の北一輝らが銃殺刑に処された


これをもってクーデターを目指す勢力は陸軍内から一掃された。


事件後しばらくは「不祥事件」「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。算用数字で226事件、2・26事件とも書かれる。


 


青年将校の政治化


陸軍将校は、教育歴が陸軍士官学校(陸士)止まりの者と、陸軍大学校(陸大)へ進んだ者たちの間で人事上のコースが分けられていた。
陸大出身者は将校団の中のエリートのグループを作り、陸軍省、参謀本部、教育総監部の中央機関を中心に勤務する。


一方で、陸大を出ていない将校たちは慣例上、参謀への昇進の道を断たれており、主に実施部隊の隊付将校として勤務した。
エリートコースから外れたこれらの隊付将校の多くが、高度に政治化された若手グループ(しばしば「青年将校」と呼ばれるが、警察や憲兵隊からは「一部将校」と呼ばれる)を作るようになっていった。


隊付将校が政治的な思想を持つに至った背景の一つには、当時の農村漁村の窮状がある。
隊付将校は、徴兵によって農村漁村から入営してくる兵たちと直に接する立場であるがゆえに、兵たちの実家の農村漁村の窮状を知り憂国の念を抱いた


こうした農村漁村の窮状に対する憂国の念が、革命的な国家社会主義者北一輝の「君側の奸」思想の影響を受けていった。
北が著した『日本改造法案大綱』は「君側の奸」の思想の下、君側の奸を倒して天皇を中心とする国家改造案を示したものだが、この本は昭和維新を夢見る青年将校たちの聖典だった。


『日本改造法案大綱』の「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次らを中心とする尉官クラスの青年将校は、上下一貫・左右一体を合言葉に、政治家と財閥系大企業との癒着をはじめとする政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破して、特権階級を排除した天皇政治の実現を図る必要性を声高に叫んでいた。


青年将校たちは、日本が直面する多くの問題は、日本が本来あるべき国体から外れた結果だと考えた(「国体」とは、おおよそ天皇と国家の関係のあり方を意味する)。
農村地域で広範にわたる貧困をもたらしている原因は、「特権階級」が人々を搾取し、天皇を欺いて権力を奪っているためであり、それが日本を弱体化させていると考えた。


彼らの考えでは、その解決策は70年前の明治維新をモデルにした「昭和維新」を行う事であった。
すなわち青年将校たちが決起して「君側の奸」を倒すことで、再び天皇を中心とする政治に立ち返らせる。


その後、天皇陛下が、西洋的な考え方と、人々を搾取する特権階層を一掃し、国家の繁栄を回復させるだろうという考え方である。
これらの信念は当時の国粋主義者たち、特に北一輝の政治思想の影響を強く受けていた。


緩やかにつながった青年将校グループは大小さまざまであったが、東京圏の将校たちを中心に正式な会員が約100名ほどいたと推定されている。
その非公式のリーダーは西田税であった。


元陸軍少尉で北一輝の門弟であった西田は、1920年代後半から急増した民間の国粋主義的な団体の著名なメンバーとなっていった。
彼は軍内の派閥を「国体原理派」と呼んだ。1931年(昭和6年)の三月事件と十月事件に続いて、当時の政治的テロの大部分に少なくともある程度は関与したが、陸軍と海軍のメンバーは分裂し、民間の国粋主義者たちとの関係を清算した。


皇道派と国体原理派の関係の正確な性質は複雑である。
この二派は同じグループとされたり、より大きなグループを構成する2つのグループとして扱われることも多い。


しかし、当時のメンバーたちの証言や書き残されたものによると、この二派は現実に別個のグループであって、それらが互恵的な同盟関係にあったことが分かる。
皇道派は国体原理派を隠蔽しつつ、彼らにアクセスを提供する見返りとして、急進的な将校たちを抑えるための手段として国体原理派を利用していた。


 


磯部と陸軍幹部の接触


二・二六事件の蹶起の前年から、磯部浅一らは軍上層部の反応を探るべく、数々の幹部に接触している。
「十月ごろから内務大臣と総理大臣、または林前陸相か渡辺教育総監のいずれかを二人、自分ひとりで倒そうと思っていた」と磯部は事件後憲兵の尋問に答えている。


1935年(昭和10年)9月、磯部が川島義之陸軍大臣を訪問した際、川島は「現状を改造せねばいけない。改造には細部の案など初めは不必要だ。三つぐらいの根本方針をもって進めばよい、国体明徴はその最も重要なる一つだ」と語った


1935年12月14日、磯部は小川三郎大尉を連れて、古荘幹郎陸軍次官、山下奉文軍事調査部長、真崎甚三郎軍事参議官を訪問した。


山下奉文少将は「アア、何か起こったほうが早いよ」と言い、真崎甚三郎大将は「このままでおいたら血を見る。
しかし俺がそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語った


1936年(昭和11年)1月5日、磯部は川島陸軍大臣を官邸に訪問し、約3時間話した。
「青年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と川島は答えた。


「何とかしてもらわねばならぬ」と磯部が追及しても、具体性のない川島の応答に対し、「そのようなことを言っていると今膝元から剣を持って起つものが出てしまう」と言うが、「そうかなあ、しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えた。


1936年1月23日、磯部が浪人森伝とともに川島陸軍大臣と面会した際には渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままでは必ず事がおこります」と伝えた。
川島は格別の反応を見せなかったが、帰りにニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』というのだ。一本あげよう。自重してやりたまえ。」と告げた。


1936年1月28日、磯部が真崎大将の元を訪れて、「統帥権問題に関して決死的な努力をしたい。相沢公判も始まることだから、閣下もご努力いただきたい。ついては、金がいるのですが都合していただきたい」と資金協力を要請すると、真崎は政治浪人森伝を通じての500円の提供を約束した


磯部はこれらの反応から、陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断した


 


その後の展開


26日、荒木貞夫大将に会った石原莞爾大佐は「ばか!お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と面と向かって罵倒し、これに対して「なにを無礼な!上官に向かってばかとは軍規上、許せん!」と、えらいけんまくで言い返す荒木に対して石原は「反乱が起っていて、どこに軍規があるんだ」とくってかかり、両者は一蝕即発の事態になったが、その場にいた安井藤治東京警備参謀長の取り成しで事なきを得ている。


午前9時、川島陸相が天皇に拝謁し、反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明した。
事件が発生して恐懼に堪えないとかしこまる川島に対し、天皇は「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」「速ニ事件ヲ鎮圧」せよと命じた。
この時点で昭和天皇が反乱軍の意向をまったく汲んでいないことがあらためて明瞭になった。


午後に清浦奎吾元総理大臣が参内。「軍内より首班を選び処理せしむべく、またかくなりしは朕が不徳と致すところとのご沙汰を発せらるることを言上」するが、天皇は「ご機嫌麗しからざりし」だったという(真崎甚三郎日記)。磯部の遺書には「清浦が26日参内せんとしたるも湯浅、一木に阻止された」とある。


正午半過ぎ、前述の荒木・真崎・林のほか、阿部信行・植田謙吉・寺内寿一・西義一・朝香宮鳩彦王・梨本宮守正王・東久邇宮稔彦王といった軍事参議官によって宮中で非公式の会議が開かれ、穏便に事態を収拾させることを目論んで26日午後に川島陸相名で告示が出された。


一、蹶起󠄁ノ趣旨ニ就テハ天聽ニ達󠄁セラレアリ
二、諸󠄀子ノ眞意󠄁ハ國體顯現ノ至情󠄁ニ基クモノト認󠄁ム
三、國體ノ眞姿󠄁顯現ノ現況(弊󠄁風ヲモ含ム)ニ就テハ恐󠄁懼ニ堪ヘズ
四、各軍事參議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進󠄁スルコトヲ申合セタリ
五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ


この告示は山下奉文少将によって陸相官邸に集まった香田・野中・津島・村中の将校と磯部浅一らに伝えられたが、意図が不明瞭であったため将校等には政府の意図がわからなかった。


しかしその直後、軍事課長村上啓作大佐が「蹶起趣意書」をもとにして「維新大詔案」が作成中であると伝えたため、将校らは自分たちの蹶起の意志が認められたものと理解した


27日夜、石原莞爾が磯部と村中を呼んで、「真崎の言うことを聞くな、もう幕引きにしろ、我々が昭和維新をしてやる」と言った。


正午、山下奉文少将が奉勅命令が出るのは時間の問題であると反乱部隊に告げた。


これをうけて、栗原中尉が反乱部隊将校の自決と下士官兵の帰営、自決の場に勅使を派遣してもらうことを提案した。


川島陸相と山下少将の仲介により、本庄侍従武官長から奏上を受けた昭和天皇は「自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ」と非常な不満を示して叱責した。


しかしこの後もしばらくは軍上層部の調停工作は続いた


奉勅命令を知った反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まり、反乱部隊将校に対して抗議や説得の声を上げた。
午後11時、「戒作命十四号」が発令され反乱部隊を「叛乱部隊」とはっきり指定し、「断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」と武力鎮圧の命令が下った


 


真崎の事件関与


事件の黒幕と疑われた真崎甚三郎大将(前教育総監。皇道派)は、1937年(昭和12年)1月25日に反乱幇助で軍法会議に起訴されたが、否認した。


論告求刑は反乱者を利する罪で禁錮13年であったが、9月25日に無罪判決が下る


しかし、反乱軍に同情的な行動を取っていたことは確かであり、26日午前9時半に陸相官邸を訪れた際には磯部浅一に「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる。」と声を掛けたとされ、また川島陸相に反乱軍の蹶起趣意書を天皇に上奏するよう働きかけている。


このことから真崎大将の関与を指摘する主張もある


一方、当時真崎大将の護衛であった金子桂憲兵伍長(少尉候補者第21期、昭和19年9月1日調では北部憲兵隊司令部附、憲兵中尉)の戦後の証言によると、真崎大将は「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる」とは全然言っておらず、「国体明徴と統帥権干犯問題にて蹶起し、斎藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、渡辺教育総監および牧野伸顕に天誅を加えました。牧野伸顕のところからは確報はありません。目下議事堂を中心に陸軍省、参謀本部などを占拠中であります」との言に対し、真崎大将は「馬鹿者! 何ということをやったか」と大喝し、「陸軍大臣に会わせろ」と言ったとしている。


また、終戦後に極東国際軍事裁判の被告となった真崎大将の担当係であったロビンソン検事の覚書きには「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」と記されており、寺内寿一陸軍大臣が転出したあと裁判長に就任した磯村年大将は、「真崎は徹底的に調べたが、何も悪いところはなかった。だから当然無罪にした」と戦後に証言している。


真崎は好人物で誰の話でも親身になって聞くため、脈ありと誤解されて勝手に祭り上げられていただけの可能性が高い。




出典: 「二・二六事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



大事件だったのですわねぇ~。。。



この事件が起きたので、庶民も政治家も財界人も軍人に対して率直な意見を言うことができなくなってしまったと言われているのですよ。。。


つまり、軍人に反抗するような事を言ったら殺されるかも知れないと思って、怖くて面と軍人に向かってモノが言えなくなってしまったのですかァ~?


そういうことです。。。この事件を境にして、日本はますます軍国主義に傾いていったというのです。。。


。。。で、消された真実というのは。。。?


上の説明にも書いてあるけれど、二・二六事件の首謀者の一人であり事件後 死刑になった磯部浅一は、事件前に真崎甚三郎・大将を幾度か訪ねている。。。資金協力を要請すると、当時の500円を出してくれると言った。。。そういうわけで磯部はこれらの反応から、(真崎大将を含めた)陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断したのですよ。。。


つまり、真崎大将は青年将校たちの考えや行動に理解を示していたのですねぇ~。。。


そういうことですよ。。。事件の資金協力に応じたのだから、事件に無関係じゃないのですよ。。。ところが事件後の裁判では真崎大将は無罪だった。。。


つまり、その裁判で真実が消されたのですわねぇ~。。。


そういうことです。。。上のクリップでは、次のシーンが出てくる。。。


 



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昭和63年に、2.26事件の軍法会議の主席検察官の匂坂春平(さきさかしゅんぺい)の膨大な裁判資料(匂坂メモ)が見つかった。。。この資料に基づいて「消された真実」を追求したのがNHKが昭和63年に放映した「NHK特集 二・二六事件 消された真実 陸軍軍法会議秘録」の番組です。。。これまでの定説を覆すような真実が発見されたのです。。。それまで、軍法会議の資料は極秘とされて、ひた隠しに隠されてきたのですよ。。。



その定説を覆す真実とはどのよなものなのですか?


あのねぇ~、この裁判自体がおかしい! 1審のみで、弁護士なし、非公開、即決。。。これでは、事件の首謀者19名を死刑にして、なるべく早くこの事件を片付けて、臭いものに蓋をしたいという考えが見え見えなのですよ。。。


つまり、犯人を青年将校だけにとどめ、陸軍上層部に影響が及ぶのを避けようとしたのですねぇ~。。。


そういうことです。。。この番組には二・二六事件をライフワークにしている作家の澤地久枝さんが関わっており、彼女と秘書の二人で「匂坂メモ」を丸3ヶ月かけてデジタル化したのですよ。。。その一部が次の画像です。。。


 



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これを見ると、なんと被告として当時の陸軍大臣を含めて、錚々(そうそう)たる陸軍の上層部の大将、中将が主席検察官の匂坂春平により取り調べを受けているのですよ。。。



これは大変なことですねぇ~。。。


そうです。。。これほどまで事件を拡大して取り調べたなんて、僕はこれまでに聞いたことがありませんよ。。。前代未聞(ぜんだいみもん)! だから、陸軍のみならず、政府も一緒になって資料を極秘にしたのも頷(うなづ)けます。。。


。。。で、消された真実とは。。。?


 



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あのねぇ~、宮中で軍事参議官の大将たちが集まって善後策を決定する前に、戒厳司令部の長官である香椎中将が「陸軍大臣より」というメモ程度のものを「陸軍大臣告示」という強制力のあるものに書き換えてしまったというのです。。。この文章を起案した者が山下泰文少将だというのですよ。。。つまり、山下少将、香椎中将、真崎大将は青年将校が昭和維新を起こすことを予測していた。。。これを利用して、真崎大将を首班とする軍事内閣を立ち上げようという陰謀を企てたのですよ。。。この陸軍大臣告示を発令することにより、一気に事を進めて、青年将校たちを戒厳警備隊に組み入れ、その後、昭和天皇の裁可を受けて真崎内閣を組閣するという予定だった。。。



なせ、そのように事が運ばなかったのですか?


昭和天皇の心の内が読めなかった。。。天皇は激怒していたのですよ。。。


 



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昭和天皇は昭和維新を起こそうという青年将校を反乱軍と断定して、即刻、討伐するようにと命じた。。。



それで反乱軍は天皇の怒りを知って下士官たちを原隊に返し、自分たちは大人しく検挙されたのですか?


そういうことです。。。陸軍は天皇の勅許を得て、1審のみで、弁護士なし、非公開、即決の陸軍軍法会議を設置したのです。。。陸軍上層部の考えでは、自分たちの足元に火が及ぶ前に、事を穏便に片付けたいと思っていたけれど、主席検察官の匂坂春平は上層部の思惑とは全く別に、大将、中将と言えども被告人として取り調べることを厭(いと)わなかった。。。


それなのに、どういうわけで陸軍上層部の陰謀が暴(あば)けなかったのですか?


「匂坂メモ」には、香椎中将が「陸軍大臣告示」を捏造した事実を突き止めているのですよ。。。


それなのに、なぜ香椎中将や、山下少将、真崎大将を起訴できなかったのですか?


ちょっと次の図を見てください。。。


 



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建前(たてまえ)は「司法の独立」なのですよ。。。でもねぇ~、実際には陸軍軍法会議は陸軍大臣が長官として、司法部も検察部も彼の権力の下にある。。。この時の長官が寺内寿一大将だったのです。。。



寺内大将も陸軍大臣になる前に 取り調べを受けたのでしょう?


そうです。。。だから主席検察官の匂坂春平を快く思っているわけがない。。。しかも、翌年、昭和12年7月7日に日中戦争が勃発。。。


 



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もういい加減にしろ!ということで、取り調べは圧力がかかって取りやめ、寺内寿一大将は、北支那方面司令官として中国に出征。。。主席検察官の匂坂春平は満州に左遷させられてしまった。。。



まともに取り調べが進めば、陸軍の上層部は有罪判決が出たかもしれないのですわねぇ~。。。


そうですよ。。。そうなったら、陸軍は崩壊してしまったかもしれない。。。でもねぇ~、良識がある軍人も居たのですよ。。。と言うよりは、陸軍には、いわゆる皇道派と統制派の派閥争いがあった。。。だから、統制派の連中は、皇道派の陰謀を薄々気がついていた。。。この事件がきっかけで統制派は権力を握り、山下少将は満州に飛ばされ、その後中央に戻ってくることはなかった。。。香椎中将以上の皇道派の軍人たちは予備役にされて、中央から追われた。。。


要するに真崎大将を無罪になったのは、真実が消されたからなのですねぇ~。。。


そういうことです。。。これまでのことを知った上で真崎大将のウィキペディアの経歴と人となりを読んでみてください。。。


 



真崎甚三郎


 



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1876年(明治9年)11月27日 - 1956年(昭和31年)8月31日)


 


眞崎 甚三郎(まさき じんざぶろう)は、日本の陸軍軍人。
陸軍士官学校9期、陸軍大学校19期。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位勲一等功四級。


荒木貞夫と共に皇道派の頭目の一人。
皇道派青年将校が起こした二・二六事件においては、犯人らの主張に沿って収束を図ったが、昭和天皇の強い反発を招き失敗した


事件後に設けられた軍法会議においては無罪となった。
真崎の事件への関与の度合いについては意見が分かれている。


弟に海軍少将、衆議院議員の眞崎勝次。
長男に外務省、宮内庁の官僚で昭和天皇の通訳を長く務めた真崎秀樹。


 


裁判


真崎は事件後の3月10日に、荒木貞夫、川島義之、阿部信行、林銑十郎と共に予備役となった


本庄繁、南次郎も4月22日に予備役入りしている。
この内、真崎、荒木、本庄の三名が皇道派であった。


これにより現役陸軍大将は寺内寿一、西義一、植田謙吉のみとなった


陸相官邸における行動、伏見官邸における工作、軍事参議官会議における大詔渙発、戒厳令施行の促進などが反乱者に対する利敵行為とみなされ、4月21日から東京憲兵隊本部の大谷敬二郎大尉らによる取調べを受けた。


真崎は、12月28日から断食を始め、翌1937年1月6日頃からは水も飲まず、息子〔秀樹?〕を2回呼び、遺言めいたことを言った。
1月12日頃、衛戍病院に入院し、阿部大将等が面会に行っても許可されなかった。


その後予審を経て陸軍軍法会議法ではなく緊急勅令(東京陸軍軍法会議ニ関スル件(昭和11年3月4日勅令第21号))によって設けられた東京陸軍軍法会議により1937年1月25日に起訴された。


裁判は第一師団軍法会議庁舎において6月1日から行われた。
裁判官は、上級判士が磯村年予備役大将、判士が松木直亮予備役大将、小川関治郎陸軍法務官(少将相当)が務めた。
7月15日の論告では、反乱者を利す罪で禁固13年が求刑された


しかし、真崎は9月25日の東京陸軍軍法会議の判決で無罪となった。


判決文の内容は意味不明なものとなった。具体的には



以上ノ事実ニ被告本人ニ於テ其ノ不利ナル点ニ付否認スル所アルモ、他ノ証拠ニ依リ之ヲ認ムルニ難カラズ、 然ルニ之ガ反乱者ヲ利セムトスル意思ヨリ出デタル行為ナリト認定スベキ証拠十分ナラズ


反乱部隊を利した行為は明らかであるが、これが反乱部隊を利せんとする意思に基づくものであるかは認定できなかった、というのが無罪の理由であった。


荒木が近衛文麿首相に無罪とするよう頼み込み、近衛は厳罰論に傾いていた杉山元陸相を説得し、これ以上の混乱を引き起こさぬように無罪とするように圧力をかけた


磯村の証言によると、最終的には大山文雄陸軍省法務局長が強硬派の小川を呼び円満解決を図るよう説得した


杉山陸相から判決文を奏呈された天皇はこれをその場で熟読し、手元に留め置いた。


小川関治郎陸軍法務官は、「判決理由書は有罪論を展開し、主文では無罪とした。誰が判決文を読んでも真崎が有罪であることがわかるようにした」と証言している。


荒木貞夫も、「判決理由は、ひとつひとつ、真崎の罪状をあげている。そして、とってつけたように主文は"無罪"。あんなおかしな判決文はない」と述べている。


証人として出廷した磯部は真崎の態度に幻滅し、『獄中日記』において真崎を呼び捨てにして激しく非難した


 


評価


『軍ファシズム運動史』を著した秦郁彦は、真崎については戦前戦後を通して「腹黒い野心家」、「陰険な策謀家」、「青年将校を裏切った卑怯者」との評価が定着しており、「その本質は強きを助け、弱きを虐げる小心翼翼とした官僚型野心家」だったのではと記している。


米国立公文書館に保管されていた東京裁判での国際検察局尋問調書を調査した粟屋憲太郎は真崎の「中学時代から親米主義者だった」との弁明や、同じく公文書館から発掘した徳川義親日記にある、二・二六事件取調中"返答に詰まると数珠を出して拝む"などの記録から、前出の秦郁彦の評価も引用して「これまで読んだ尋問調書のうち、真崎の調書は最も格調の低いものの一つであった」と評している。


田崎末松は、真崎の長男の真崎秀樹が戦後に昭和天皇の通訳を務めていることから、昭和天皇は、「風雪三十年の結果、二廻りも三廻りも人間的に成長され円熟され」、「禍根の張本人として消えていったものが実は無類の忠臣であった、というような価値評価の転換も行われていた」のではないかとしている。


真崎の自動車運転手を務めていた石黒幸平(陸軍自動車学校職工)は、真崎大将は情に厚く部下思いであると、陸軍部内はもちろん自動車運転手間にも信望があったと証言をしている。


石原莞爾は真崎のことを嫌悪していた
石原が満州から参謀本部への転勤を命じられたとき、真崎甚三郎が「君は素晴らしい逸材だ。君の新しい部署を決めるのに三月もかかったのだ」と褒めちぎったが、真崎が自身を満州国から引き離す黒幕と気づいていた石原は、「陸軍の人事は私の関知するところではありません」と握手を拒み、その後も真崎の酒席の誘いを拒むなど徹底的に嫌った。真崎の差し出した握手を無視したこともあったという。




出典: 「真崎甚三郎」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




初出: 2023年10月4日



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【ジューンの独り言】



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ですってぇ~。。。


あなたは、真崎甚三郎大将が青年将校たちを影で応援して事件を起こすように仕向けたと思いますかァ~?


ええっ。。。 「そんなことは どうでもいいから、他に何か面白いことを話せ!」


あなたは、そのように わたしにご命令なさるのですかァ~?


分かりましたわ。。。 じゃあ、面白い動画をお目にかけますわァ。。。


ワンワンちゃんが人間の言葉をしゃべります!


 



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ええっ。。。? 「そんな馬鹿バカしい動画など、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」


あなたは、また そのような命令口調で わたしに強要するのですか?


わかりましたわァ。。。


では、たまには日本の歴史の話も読んでみてくださいなァ。


日本の古代史にも、興味深い不思議な、面白いお話がありますわァ。


次の記事から興味があるものをお読みくださいねぇ~。。。



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同腹の兄弟ではなかった。


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じゃあね。バーィ。



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