犬死@太田将宏 (PART 1) | バークレーの書きたい放題!

犬死@太田将宏 (PART 1)


 


犬死@太田将宏 (PART 1)


 



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デンマンさん。。。、どういうわけでオイラの名前の前に犬死を書き込んだのですか?



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オマエは不満なのォ~。。。


当たり前でしょう! 何も知らないネット市民の皆様はオイラが犬死したと思うではありませんか! どうして、このような嫌がらせをするのですか? これでは、あの悪名高い「現実主義者」と変わらない嫌がらせ行為ではありませんかア!


 



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『現実主義者 馬鹿の見本』


 



僕は、オマエに嫌がらせをするために犬死を書き込んだわけではないのだよ!



じゃあ、何のためですか?


あのさァ~、オマエは忘れてしまっているようだけれど、オマエ自身が記事の中で犬死を書いていたのだよ!


マジで。。。?


信じられないのならば、オマエが“間奏曲集”の中で書いた次の記事を読んでごらんよ。。。



1.5 Ludwig van Beethoven (1770 – 1827)


L.v. Beethovenの<<Fidelio>>(Op. 72)は、初演の当時から幾多の論議を呼んできた。それがとりもなおさず、この四つの序曲をもつ彼の唯一のオペラが、他ならぬBeethovenの作品であるが故であることは、とかく忘れられがちであるのではないであろうか。
その議論の一つに、夫婦愛などをテーマとしたオペラが成功するはずがない、というのがあった(草子地:結婚したことのない彼、Beethovenが描く夫婦の理想像?などと半畳を入れるのはやめよう。こんなことは、結婚などをしていないからこそ出来るのであるから)。しかし、たとえ登場人物が夫婦ではなかったとしても、恋人同士であったとしても、話の筋道は大体つくであろうのに、それを、ことさらに、夫婦とした台本を使用したところに、私は、むしろ、Beethovenの破天荒な意思、意欲を感じるのである(草子地:その、彼らしい作品の説得力の力強さだけは、私にとって、私が結婚する前も後も変りがなかった)。
この作品は良い作品ではあるが、それでも、W.A. Mozartのオペラに較べれば、太陽を前にした星である、ということを誰かが言っていた(草子地:巧く表現したものである)。それはそうであろう。舞台は、貴族の館などではなくして、監獄の中での出来事である。何も、Beethovenの作品に、Mozartの音楽を聴こうとすることもなかろう。そんな風な聴き方は、Mozartだって野暮だと言うであろうし。
第三に、これは、この作品に限らないが、Beethovenの声楽の扱い方に対する批判が後をたたないことである。しかし、思い切って乱暴に言ってしまえば、彼は、彼のやり方で人声を扱ったまでで。それはそれで完成されたものではなかったか、と私は思うのである。器楽的で、唱うのに無理がある? 当り前であろう。苦悩を唱うのには苦しい発声も必要である。彼が、譲歩に譲歩を重ねて、何度も書き直したのは、その苦悩を聴いて欲しかったからであろう。繰り返すが、Beethovenは、Beethoven の声楽を書いたのであって、それが器楽的である、ということではあるまい。それを言うのならば、J.S. Bachの声楽曲だって充分に器楽的である。彼も、Mozartも同様な批判を受けたことがあることはあったが、それは途絶えて、Beethovenのそれだけが、今日なお指摘されている。奇妙なことには、誰も、BeethovenのFugeは、あまりにも和声的だ、などとは言わない。Beethovenは、BeethovenのFuge を書いた、ということは受け入れられている。
しかし、このオペラの筋書きには重大な欠陥がある。もし、FlorestanがFernandoの呼ぶように<Mein Freund!>であったのなら、何故、Leonoreは、あれだけの苦労、辛苦、危険を冒す必要があったのか、ということである。そもそも、直接Fernandoを訪れ、事情を説明すれば、それですんだことではなかったか。
それにも拘らず、抑圧からの解放、これは、常に現代的、現在的である。ただ、その解放がDon Fernandoの鶴の一声では成らぬことを知るのには、人類は、未だ、一世紀余りを要した。さもなくば、この作品中にDon Fernandoなどが出て来る幕などは無かったであろう。これを、また、Beethovenのせいにはすまい。そもそも、彼といえども、何らの見通しの無い時代には、強固の意志に貫かれた、信仰にも近いような信念なくしては、理想などはもち得ないではないか。その意味では、共和主義者Beethoven は古典的であった。
現代的であること、現代人であることは、必ずしも幸いなことではない。今、ソヴィエト社会主義連邦共和国や東欧諸国で起きている事態、あれは何であろうか。この様にして、この二十世紀最大の実験は無に帰するのであろうか。それでは、革命に血を流した勇敢なる闘士は浮かばれないであろう。それこそ、Stalinismeによる犬死に、それで終わるのであろうか。
犬死、と言えば、先の太平洋戦争で散った兵士たちの死もまた、全て犬死であった。遺族は、それぞれに、戦死者に何らかの意味を見い出したいと思い、それもまた当然すぎる心情ではあ
ろうが、私は、敢えて言いたい、それは犬死であったと。それである故にこそ、その無意味な悲惨を繰り返してはならない、と。犬死という認識ではなかったら、その悲惨さは権力によって薄められるのである。はっきり言おう。遺族団体は、現在、政府に媚びる圧力団体に堕しているではないか。言うべきことが言える間に、言うべきことは、きちんと言う、それしか出来ない私である。また、私は共産主義者でもないが、それを強調するまでもあるまい。
それにしても、私の知る限り、Beethovenの失恋の相手は、貴族の令嬢ばかりであった。奇妙な共和主義者ではあった、と思わざるを得ない。しかしながら、彼のmessageは、いまだ有効である。


追記(コーダ):
仮に、USAという国が世界で一番悪い国だったとすると(草子地:仮定文で書かないで理由も言わねば道義に反する。理由が余りに多すぎるので、煩雑になるが故に、仮定文にしたのである。)、アメリカ人というのは、世界で一番悪い連中である、ということになるであろう。何故かと言うと、USAは、一応は<民主主義の国>(草子地:見られる通り、括弧つきである。)である、ということになっているからである。故に、政府は悪いけれど、その国の国民は悪くはないなどと、あたかも独裁者のいる国に対するようには言えないであろうからである。せめて、国民は、政治家を選び、投票する権利はあるけれど、その投票には、何らの道義的な責任もない、と開き直って言うほどには、ずうずうしくはない、と期待したい。その道義的な責任を果たす手段が見つかり難い、ということだけが、私のみる民主主義の欠陥ではあるが、だからと言って、責任も手段も全く無い、とは言えないであろう。さもなくば、民主主義とは、全くの衆愚主義である。問題は、むしろ、その自覚がアメリカ人に無い、ということであろうか。
(1990年12月12日。2006年5月29日改訂。)




13-14ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より


デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!



あのさァ~、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やラテン語が入り混じっている。。。



デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。


それは、オマエの個人的な見解だと思うのだよ! 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!


134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?


いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。


マジで。。。?


僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。



1.5 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン


    (1770 – 1827)



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ベートーヴェンの<<フィデリオ>>(Op. 72)は、初演の当時から幾多の論議を呼んできた。


 



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フィデリオ


 


この作品は、ベートーヴェンの作品群の中でも特に難産に見舞われた作品のひとつであり、成功を収める版が完成するまでに何度も書き直しがなされている。


このオペラはベートーヴェン中期の代表作に挙げられる。
ブイイの原作の英雄主義的な性格や、当時のヨーロッパの知識人層に浸透し始めていた自由主義思想へのベートーヴェン自身の強い共感を背景として、英雄的な中期の作風が存分に反映されている。


ベートーヴェンの声楽曲によくあることだが、このオペラも歌手にとっては必ずしも歌いやすい音楽ではない。
特に、レオノーレとフロレスタンのパートを歌うには高度な技術を要し、そうでなければ要求された緊張感を表現することは到底不可能である。
このため、これらの配役を見事に演じた歌手は賛美の的となる。


囚人達の合唱、政治犯達の自由を謳う合唱、フロレスタンをレオノーレが助けにきた場面、そして救出が成功した場面などは、特筆に価する。
最後は、ソリストや合唱が代わる代わるレオノーレの勝利を讃えて、フィナーレを迎える。


多くの楽曲分野で後世の指標となる業績を残したベートーヴェンとしては完全な成功作とは言えない(ドイツオペラの最初の成果としても「魔笛」や「魔弾の射手」が挙げられることの方が多い)との批判もあるが、いちおう代表作のひとつとして今なお上演回数も多い。


これによって作曲者はモーツァルトとともに、主要音楽分野のほとんどに代表作を残した稀有の存在となった。
ドイツ圏ではバッハ以来、オペラをまったく残していない(または成功作がない)作曲家が多いだけに、貴重な作である。


 


主な登場人物


フロレスタン(囚人) テノール


レオノーレ(フロレスタンの妻) ソプラノ


ロッコ(刑務所員) バス


マルツェリーネ(ロッコの娘) ソプラノ


ヤキーノ(ロッコの補佐官) テノール


ドン・ピツァロ(刑務所長) バリトン


ドン・フェルナンド(大臣) バス




出典: 「フィデリオ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


それがとりもなおさず、この四つの序曲をもつ彼の唯一のオペラが、他ならぬベートーヴェンの作品であるが故であることは、とかく忘れられがちであるのではないであろうか。
その議論の一つに、夫婦愛などをテーマとしたオペラが成功するはずがない、というのがあった。
(草子地:結婚したことのない彼、ベートーヴェンが描く夫婦の理想像?などと半畳を入れるのはやめよう。こんなことは、結婚などをしていないからこそ出来るのであるから)。


しかし、たとえ登場人物が夫婦ではなかったとしても、恋人同士であったとしても、話の筋道は大体つくであろうのに、それを、ことさらに、夫婦とした台本を使用したところに、私は、むしろ、ベートーヴェンの破天荒な意思、意欲を感じるのである。
(草子地:その、彼らしい作品の説得力の力強さだけは、私にとって、私が結婚する前も後も変りがなかった。)


この作品は良い作品ではあるが、それでも、モーツァルトのオペラに較べれば、太陽を前にした星である、ということを誰かが言っていた(草子地:巧く表現したものである)。
それはそうであろう。
舞台は、貴族の館などではなくして、監獄の中での出来事である。


何も、ベートーヴェンの作品に、モーツァルトの音楽を聴こうとすることもなかろう。
そんな風な聴き方は、モーツァルトだって野暮だと言うであろうし。


第三に、これは、この作品に限らないが、ベートーヴェンの声楽の扱い方に対する批判が後をたたないことである。
しかし、思い切って乱暴に言ってしまえば、彼は、彼のやり方で人声を扱ったまでで。
それはそれで完成されたものではなかったか、と私は思うのである。


器楽的で、唱うのに無理がある?
当り前であろう。
苦悩を唱うのには苦しい発声も必要である。


彼が、譲歩に譲歩を重ねて、何度も書き直したのは、その苦悩を聴いて欲しかったからであろう。
繰り返すが、ベートーヴェンは、ベートーヴェンの声楽を書いたのであって、それが器楽的である、ということではあるまい。
それを言うのならば、バッハの声楽曲だって充分に器楽的である。


彼も、モーツァルトも同様な批判を受けたことがあることはあったが、それは途絶えて、ベートーヴェンのそれだけが、今日なお指摘されている。
奇妙なことには、誰も、ベートーヴェンのフーガは、あまりにも和声的だ、などとは言わない。
ベートーヴェンは、ベートーヴェンのフーガ を書いた、ということは受け入れられている。


しかし、このオペラの筋書きには重大な欠陥がある。
もし、フロレスタンがドン・フェルナンドの呼ぶように<私の友よ!>であったのなら、何故、レオノーレは、あれだけの苦労、辛苦、危険を冒す必要があったのか、ということである。
そもそも、直接ドン・フェルナンドを訪れ、事情を説明すれば、それですんだことではなかったか。


それにも拘らず、抑圧からの解放、これは、常に現代的、現在的である。
ただ、その解放がドン・フェルナンドの鶴の一声では成らぬことを知るのには、人類は、未だ、一世紀余りを要した。


さもなくば、この作品中にドン・フェルナンドなどが出て来る幕などは無かったであろう。
これを、また、ベートーヴェンのせいにはすまい。


そもそも、彼といえども、何らの見通しの無い時代には、強固の意志に貫かれた、信仰にも近いような信念なくしては、理想などはもち得ないではないか。
その意味では、共和主義者ベートーヴェン は古典的であった。
現代的であること、現代人であることは、必ずしも幸いなことではない。


今、ソヴィエト社会主義連邦共和国や東欧諸国で起きている事態、あれは何であろうか。
この様にして、この二十世紀最大の実験は無に帰するのであろうか。


それでは、革命に血を流した勇敢なる闘士は浮かばれないであろう。
それこそ、スターリニズムによる犬死に、それで終わるのであろうか。


犬死、と言えば、先の太平洋戦争で散った兵士たちの死もまた、全て犬死であった。
遺族は、それぞれに、戦死者に何らかの意味を見い出したいと思い、それもまた当然すぎる心情ではあろうが、私は、敢えて言いたい、それは犬死であったと。


それである故にこそ、その無意味な悲惨を繰り返してはならない、と。
犬死という認識ではなかったら、その悲惨さは権力によって薄められるのである。


はっきり言おう。遺族団体は、現在、政府に媚びる圧力団体に堕しているではないか。
言うべきことが言える間に、言うべきことは、きちんと言う、それしか出来ない私である。
また、私は共産主義者でもないが、それを強調するまでもあるまい。


それにしても、私の知る限り、ベートーヴェンの失恋の相手は、貴族の令嬢ばかりであった。
奇妙な共和主義者ではあった、と思わざるを得ない。
しかしながら、彼のメッセージは、いまだ有効である。


 



追記(コーダ):


 


仮に、アメリカという国が世界で一番悪い国だったとすると(草子地:仮定文で書かないで理由も言わねば道義に反する。
理由が余りに多すぎるので、煩雑になるが故に、仮定文にしたのである。)


アメリカ人というのは、世界で一番悪い連中である、ということになるであろう。
何故かと言うと、アメリカは、一応は<民主主義の国>(草子地:見られる通り、括弧つきである。)である、ということになっているからである。


 



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故に、政府は悪いけれど、その国の国民は悪くはないなどと、あたかも独裁者のいる国に対するようには言えないであろうからである。
せめて、国民は、政治家を選び、投票する権利はあるけれど、その投票には、何らの道義的な責任もない、と開き直って言うほどには、ずうずうしくはない、と期待したい。


その道義的な責任を果たす手段が見つかり難い、ということだけが、私のみる民主主義の欠陥ではあるが、だからと言って、責任も手段も全く無い、とは言えないであろう。
さもなくば、民主主義とは、全くの衆愚主義である。
問題は、むしろ、その自覚がアメリカ人に無い、ということであろうか。


(1990年12月12日。2006年5月29日改訂。)




赤字はデンマンが強調)


13-14ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より


デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!



つまり、オイラが次のように言ったので、デンマンさんはムカついたのですか?




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犬死、と言えば、先の太平洋戦争で散った兵士たちの死もまた、全て犬死であった。


遺族は、それぞれに、戦死者に何らかの意味を見い出したいと思い、それもまた当然すぎる心情ではあろうが、私は、敢えて言いたい、それは犬死であったと。


 


それである故にこそ、その無意味な悲惨を繰り返してはならない、と。


犬死という認識ではなかったら、その悲惨さは権力によって薄められるのである。




ムカついたと言うよりも、ご遺族に対してと言うか、戦死した人間に対してオマエが吐いた言葉は“基本的人権”を無視しているように思えたのだよ。。。 だから、敢えてアミサさんの言葉をオマエに浴びせたい。


 



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あなたは「基本的人権」を


理解してないよねぇ~?


『現実主義者のコメント』


 



お言葉ではありますが、オイラは基本的人権に関しては充分すぎるほど理解しているつもりです。。。



オマエが言った言葉は、僕には、あの悪名高い「現実主義者」が次のように言った言葉と同じように響くのだよ!



引きこもり 現実主義者 偏差値 ネットの嫌われ者 イジメ 自殺


 


イジメ自殺にあった者は


加害者よりも生きる価値がない
ので、


死ぬのが当然だ!




『現実主義者のコメント』より


(2017年11月27日)



デンマンさんは、この愚かな男に拘(こだわ)り過ぎているのではありませんかア~! オイラはイジメ自殺にあった者は加害者よりも生きる価値がないとは、思ってません!



でも、ご遺族のことを考えてごらんよ! オマエが言った言葉も、「現実主義者」が言った言葉も、ご遺族にとっては死んでも死にきれない、身を切り刻まれるような言葉だと思うよ! 心が痛むのだよ! 例えば、オマエのオヤジが太平洋戦争で戦死したとする。。。 そして、僕が「オマエのオヤジは犬死したのだ!」と言ったら、オマエは僕を呪い殺す気になるだろう!?


確かに、オイラの父親が硫黄島でアメリカ兵に殺され、デンマンさんに「オマエのオヤジは何の役にも立たない野良犬のように犬死したのだ!」と言われたら、デンマンさんのワラ人形を作って、毎晩5寸釘を打ち込んで呪い殺すでしょうねぇ~。。。


 



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オイ!。。。 オイ!。。。 そのように血走った目で僕を見つめないでくれるゥ~。。。 僕は、オマエに呪い殺されるような気がしてきたよ。。。 例えばの話として言っただけなんだから、本気になって僕のワラ人形を作って 5寸釘を打ち込むことだけはしないようにしてくれよなァ~。。。



デンマンさんは、何が何でもオイラと あの悪名高い「現実主義者」を“同じ穴の狢(むじな)”だと見なしたいのですかァ~?


だってぇ、そうだろう! オマエはご遺族の気持ちを少しでも考えたことがあるのかァ~?


でも。。、でも。。。、遺族の気持ちよりも、悪意のある権力の方にオイラはムカつくのですよ! だから、次のように言ったのです。




 


それである故にこそ、


その無意味な悲惨を


繰り返してはならない、と。


犬死という認識ではなかったら、


その悲惨さは権力によって


薄められるのである。



確かに、悪意のある権力に視点を向ければ、オマエの言うことも理解できる。。。 でも、やっぱり ご遺族が聞いたらいい気持ちはしないのだよ! つまり、犬死という言葉は、「現実主義者」が使う“クズの廃人”と同じぐらいに嫌悪感を与えるのだよ!



じゃあ、いったい、オイラにどうしろとデンマンさんは言うのですか?


だから、犬死という言葉を使わないことだよ! 例えば、アフガニスタンや、イラクで戦死したアメリカ兵がいるよなァ。。。 その兵士のご遺族に向かって、僕が「あなたの息子の死、あるいは娘の死は犬死でした!」と言ったら、そのご遺族は、オマエのように僕のワラ人形を作って毎晩5寸釘を打ち付けて僕を呪い殺そうとするに違いない!


確かに、そうかもしれません。。。 要するに、どうすればよいとデンマンさんは言いたいのですか?


だから、オマエも次のように書いているじゃないかア!




追記(コーダ):


 


仮に、アメリカという国が世界で一番悪い国だったとすると(草子地:仮定文で書かないで理由も言わねば道義に反する。
理由が余りに多すぎるので、煩雑になるが故に、仮定文にしたのである。)


アメリカ人というのは、世界で一番悪い連中である、ということになるであろう。
何故かと言うと、アメリカは、一応は<民主主義の国>(草子地:見られる通り、括弧つきである。)である、ということになっているからである。


故に、政府は悪いけれど、その国の国民は悪くはないなどと、あたかも独裁者のいる国に対するようには言えないであろうからである。
せめて、国民は、政治家を選び、投票する権利はあるけれど、その投票には、何らの道義的な責任もない、と開き直って言うほどには、ずうずうしくはない、と期待したい。


その道義的な責任を果たす手段が見つかり難い、ということだけが、私のみる民主主義の欠陥ではあるが、だからと言って、責任も手段も全く無い、とは言えないであろう。
さもなくば、民主主義とは、全くの衆愚主義である。
問題は、むしろ、その自覚がアメリカ人に無い、ということであろうか。



アメリカという国が世界で一番悪い国だということに共感したのですか?



はっきり言って、最近のアメリカのやり方には感心しないのだよ。。。 でもなァ~、日本は、そのアメリカのやり方を見習おうとしているのだよ。。。


そうでしょうか?


だから、僕は次の記事を書いたのだよ!


 



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『元老のアメリカ』


 



つまり、日本の政治も良くないし、そのために日本での暮らしも良くなっていないと言いたいのですか?



はっきり言うと、そういうことなんだよ。。。 それで、オマエの言葉を借りて次のように言いたいわけだよ!




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日本政府は悪いけれど、その国の国民は悪くはないなどと、あたかも独裁者のいる国に対するようには言えないであろう。
せめて、日本国民は、政治家を選び、投票する権利はあるけれど、その投票には、何らの道義的な責任もない、と開き直って言うほどには、ずうずうしくはない、と期待したい。


その道義的な責任を果たす手段が見つかり難い、ということだけが、私のみる民主主義の欠陥ではあるが、だからと言って、責任も手段も全く無い、とは言えないであろう。
さもなくば、民主主義とは、全くの衆愚主義である。


 



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問題は、むしろ、その自覚が日本人に無い、ということであろうか。



つまり、戦死者を出さないために、絶対に戦争をしてはならない! デンマンさんは、そのように言いたいのですか?



その通りだよ! そうすれば、オマエも「犬死と言えば第3次世界大戦で散った日本兵士たちの死もまた、全て犬死であった」と、言うこともないわけだよ!



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 (すぐ下のページへ続く)